2019年4月9日火曜日

【越境するサル】№.188「ドイツ紀行(下)~ローテンブルクからライン川まで~」(2019.4.8発行)


 ドイツへの旅、後半はロマンティック街道のローテンブルクから、ノイシュバンシュタイン城、ヴィース教会、ハイデルベルク、フランクフルト、ライン川…見所満載だが、気候は厳しく、冬に戻ったよう。こうなると北国育ちは強いはずだが、そんなに甘くはなかった。   

 
「ドイツ紀行(下)~ローテンブルクからライン川まで~」

  ドイツ4日目(承前)。午後はローテンブルク。小雨の中、市内散策。町全体が中世の町並みの「テーマパーク」のようなローテンブルクだが、相変わらずの天候により散策は大幅に縮小せざるを得なかった…

 まず、何か温かいものが食べたいと思った。紹介してもらった日本語メニューがあるレストランで、ビーフシチューと魚料理にありつく。シチューの濃厚な味が五臓六腑にしみわたる。魚料理は、この旅行でほぼ外れなし。ここも美味い。店の雰囲気も良く、ひさしぶりにリラックスできた。身体に力がみなぎってきた。



 さて、小雨の中とはいえ行きたいポイントはある。占領軍の将軍との賭け(ワインの一気飲み)に勝って町を救った市長の伝説(1時間ごとに動き出す「マイスタートルンク」つまり「一気飲みの市長」の仕掛け時計には間に合った)があるマルクト広場の市庁舎、「絵になる交差点」として有名な「プレーンライン」、彫刻家リーメンシュナイダーの傑作「聖血の祭壇」があるゴシック様式の教会「聖ヤコプ教会」(たまたま入場できなかった)…傘を差しながら町を歩き回るが、結局、雨をしのげる店のお世話になるしかなかった。



 その世話になった店は、ここローテンブルクで13年間地元名産のフランケンワインと土産物を扱っている「えく子のワイン&ギフトショップ」。日本人が経営する、スタッフも日本人の店である。残念なことに、この3月でローテンブルク店は閉店するそうで(通販は継続)、最後の月の客となった…



 この店で白辛口のフランケンワインを試飲して、1本を自分のお土産とした。辛口のシュペートレーゼ、ようやくワインも自分のお気に入りに出会えた。


 
 ローテンブルクから4時間、ロマンティック街道の終点フュッセンを目指す。随分、遠くまで来た…



ドイツ5日目。「ノイシュヴァンシュタイン城」と「ヴィース教会」。各種ガイドブックの巻頭を飾る主要スポット。そして、どちらも期待を裏切ることはなかった。   

ドイツの観光街道として最も有名なロマンティック街道。古都ヴュルツブルクからローテンブルク、デュンケルスビュール、アウクスブルク、そしてアルプスの麓の町フュッセンまで350㎞のルート。その終点フュッセンの郊外に「ノイシュヴァンシュタイン城」はある。
朝、ホテルをバスで出て、城の麓の村ホーエンシュヴァンガウに向かう。ルートヴィヒ2世が子ども時代から慣れ親しんだ「ホーエンシュヴァンガウ城」が間近に見える。はるか山頂には「ノイシュヴァンシュタイン城」…



バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845-1886)は、17年の歳月と巨額の費用をかけて、この白亜の城を造り上げようとした。ワーグナーのパトロンとしてオペラに取り憑かれ、妃をめとらず孤独で狂気に満ちた生涯を送った若き王については、数々の書物や映画で語り継がれている。
私たち日本人に一番親しまれているのは、イタリア映画の巨匠ルキノ・ヴィスコッティ監督の『ルートヴィヒ』(1972)であろう。のちに復元完全版(約4時間)が公開されたが、その中に「ノイシュヴァンシュタイン城」をはじめとするルートヴィヒ2世建造の城の姿が収められている。

麓の村から約40分、まだ雪の残る山道を歩く。時おり馬車が通るが、それほど厳しい上りではない。やがて城が間近に迫る。



城の門をくぐった先の入場ゲートを通り、城内に入る。ここからは写真撮影禁止。いま、城内の売店で入手したガイドブックの写真で記憶を整理しているのだが、「玉座の広間」に驚嘆した後、「洞窟」をくぐるという不思議な体験を経て「歌人の広間」に至る30分(日本語オーディオガイド付)は圧巻だった。小雨の中、山道を上ってきた甲斐があった…



下りも、麓の村まで歩く。ちなみに馬車は上り6ユーロ、下り3ユーロ。上りに比べれば下りは楽なものだが、筋肉に若干疲労を感じてきた。
麓の村のレストランで一息つく。飲み物は、黒褐色のドゥンケルビール。もともと好みだったが、やはりのどごしががいい。今回の旅、ビールはほとんど目標達成。




このあと、30分ほどバスに揺られ、「ヴィース教会」へ。心地よい疲労とビールで、瞼が重い…

ヨーロッパで最も美しいロココ様式の教会のひとつ「ヴィース教会」は、牧草地の小さな巡礼教会。その外観からは、内部の華麗な装飾は想像できない。



最初に、ひとつの奇跡があった。17386月、聖体行列の為に作られたが放置されていた「鞭うたれるキリスト像」の目から涙が流れているのを、この像を引き取っていた近所の農婦が発見。その後、ヨーロッパ中から巡礼者が押し寄せる。この巡礼者に対処する為に、1754年、名建築家ツィンマーマン兄弟の手により完成したのがこの「ヴィース教会」である。以後、さまざまな曲折があったが、1983年、世界文化遺産に登録。1985年から大規模な内外装改築工事と徹底的な鑑定調査が行われ、ほぼすべての部分にわたり18世紀当時の姿が再現された。1991年、再開。
祭壇、それを取り囲む列柱群、復活したキリストと天国の門を描いた天井フレスコ画、パイプオルガン…すべての絵画と装飾工芸に圧倒される。驚きの体験、と言うべきだろう。



外は依然として小雨。ここから次の目的地ハイデルベルクまで、6時間のバス旅。
 


 ドイツ6日目。ハイデルベルクとフランクフルト。どちらも歴史を感じさせる、しかも活気に満ちた街。もっと天候に恵まれ、もっと時間があったら、隅から隅まで歩きたくなる街だった。

 午前中はハイデルベルク市内観光。
 前の晩、6時間の長旅の末たどり着いたハイデルベルクの通称「ビッグママの店」で、牛すじのシチューとともに、ついに白アスパラ(シュパーゲル)にありついた(地物ではないようだが)。そろそろドイツの旅も終わりに近づき、心残りがないようにいろいろ試してみなければ、と思い始めてきた…
 そして、ハイデルベルクだ。もうストーリーも忘れてしまった、はるか昔に読んだ『アルト・ハイデルベルク』(小説および戯曲、1898、ヴィルヘルム・マイヤー=フェルスター)のセンチメンタルな雰囲気だけを思い起こし、「ハイデルベルク城」と旧市街へと出かけた。



「ハイデルベルク城」は、13世紀からプファルツ伯の居城として拡張された山の上の古城。城の中にはゴシック、ルネッサンス、バロックなどさまざまな様式が観られる。世界最大級のワインの大樽、「ドイツ薬事博物館」、テラスから見えるライン川の支流ネッカー川沿いの旧市街の風景等々、見所は多い。



 旧市街は、ドイツ最古の歴史を誇る「ハイデルベルク大学」の校舎を中心とする見ごたえのある建物にあふれ、かつて町で騒ぎを起こした学生が投獄された学生牢や、歩行者天国で賑わう「ハウプト通り」など、とにかく観光客と若者があふれ活気に満ちている。歩いていて、こんなにわくわくする街は滅多にない。見上げれば「ハイデルベルク城」、実にいい…




 午後2時、出発。次の目的地フランクフルトまでは1時間半。

 フランクフルトは、今回の旅で最初に降り立った場所だ。ここを起点に、ベルリン、ドレスデン、ニュルンベルク、フュッセン、ハイデルベルクと一回りしてきた。旅の最後が近づいてきていることを実感しつつ、街へ出る…
 添乗員に案内してもらい、ショッピングの中心「ハウプトヴァッヘ」周辺の簡単な地理を頭に叩き込む。もっとも、あちこちを歩こうという気力もなかった。とりあえず「ゲーテハウス」と「ヴァッカーズ・カフェ」の2か所だけを確かめて、大型デパート「ガレリア・カウフホーフ」に入る。買い物はハイデルベルクの日本人観光客の為の店(「ユニコン」という)で、カードと日本円でほぼ済ませていたが、全館を一通り見てみたかった。トイレを済ませ(50セントだった)、地下の食品売り場で少し物色し、デパートを出た。
 行き先は自然に決まった。「ゲーテハウス」だ。「シュテーデル美術館」は少し遠かった。「レーマー広場(旧市庁舎)」や「大聖堂」よりも、まず「ゲーテハウス」に入り落ち着こう。いちいちトイレで料金を払うことがない場所(最高で70セント程度だが、ほとんどの場所で必要だった)で、ゆっくりしたい。しかも、ゲーテだ。



 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)はフランクフルトに生まれ、学業の為に故郷を離れた期間を除いて、この地で青年時代までを過ごした(1775年、ヴァイマールに招かれるまで)。この時期フランクフルトで書かれたのが、彼の名を轟かせた『若きウェルテルの悩み』(1774)であり、また生涯書き継がれた『ファウスト』に着手したのもこの地である。



 彼が生まれ育った生家は第2次世界大戦の空爆で破壊されたが、戦後忠実に復元された。疎開させてあった調度品も無事だった。


 こうして復元された「ゲーテハウス」は、当時屈指の名家であった一家の暮らしぶりを伝えているが、4階の「詩人の部屋」にあるゲーテの机(『若きウェルテルの悩み』が書かれた!)の前に立つと、何やら文学的な気分が自分にも満ちてくるのがわかる。ずっと前から読む計画を立てていた、ゲーテの自伝的な要素を持つ教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796)が書棚で私を待っている…




 集合時刻まで多少時間があったので、今回のドイツで唯一狙っていた珈琲専門店「ヴァッカーズ・カフェ」の前を通ってみたが、行列で人があふれていて断念。



 集合地点の「パウルス教会(パウロ教会)」にゆっくり向かう。この教会で、1848年から開催された「フランクフルト国民議会」の議事が行われ、自由主義的な「ドイツ国憲法(パウロ教会憲法)」が採択された…バスはすでに着いていた。




ドイツ7日目。ライン川クルーズ、そして帰国。
ついに最終日を迎えた。前の晩、フランクフルト空港にほど近いホテルでドイツ最後の夜。ホテル到着前には、フランクフルト市内のレストランでコールルーラーデ(ロールキャベツ)とフランクフルト名物りんご酒。あとはもう、ライン川クルーズだけだ。

ライン川クルーズは、リューデスハイム~ザンクト・ゴアールのハイライト区間70km、1時間45分の旅。私たちのバスは乗船地のリューデスハイムで私たちを降ろし、ザンクト・ゴアールで私たちを待ち受ける。
出発まで少し時間があったので、リューデスハイムの町を散策する。この「ライン川の真珠」と呼ばれる小さな町は、ドイツ有数のワインの産地。ワイン酒場やレストラン、土産物店が立ち並ぶ有名な路地「つぐみ横丁」を通り抜け、しばらく雰囲気を楽しむ。街の周囲は、すべてブドウ畑だ。




午前10時、クルーズ出発。世界中から集まった観光客(年齢層はもちろん高い)が、船内にひしめき合う。運悪く外は横殴りの雨。デッキはすいているが、ここで景色を楽しむにはかなりの覚悟が必要だ。



それでも、船からの景色はまさに絶景と言うべきか。古城とブドウ畑と沿岸の町並み…「ラインシュタイン城」、「シュターレック城」、そして、妖精の伝説で知られる「ローレライ岩」、船内にあのメロディが流れる…



 
午後、フランクフルト空港で出発を待つ。空港内の売店で、この旅でまだ食べていなかった2つのパンを購入し、昼食とした。ドイツ南部が本場のブレーツェルと、ハムのサンドウィッチ、それに搾りたてのオレンジジュース。これにエスプレッソがあれば、満足だった。



午後555分、フランクフルト空港から羽田へ。





<後記>

  「ドイツ紀行(上)~ベルリンからニュルンベルクまで~」発信の後1週間で、「ドイツ紀行(下)~ローテンブルクからライン川まで~」を発信することができた。次号については、まったくの白紙。ほぼ10日間で№186から3本発信したので、少し休みたい気分だ。




(harappaメンバーズ=成田清文)
※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、
個人通信として定期的に配信されております。

2019年4月5日金曜日

【越境するサル】№.187「ドイツ紀行(上)~ベルリンからニュルンベルクまで~」(2019.4.1発行)


20193月、妻とドイツを訪れた。添乗員付き8名のツアー。羽田からルフトハンザ航空でフランクフルトへ12時間のフライト。成田から出発するより、気分的にはだいぶ楽なはずだった…

 
「ドイツ紀行(上)~ベルリンからニュルンベルクまで~」

  ドイツ1日目。羽田空港からフランクフルト空港、そして乗り換えてベルリン・テーゲル空港へ。これが、想定していた以上の長旅となった。

 その前日、弘前駅からJRで秋田県鷹ノ巣駅に向かい、大館能代空港から羽田へ。国際線ターミナル内のホテルで一泊。快適な旅だった。お気に入りの羽田空港国際線ターミナル・江戸小路で焼き鳥とビール。出発の日の午前も、館内各所と展望デッキでゆったりと過ごし、余裕をもって出国した。少し出発が遅れたが、その分フランクフルトでの待ち時間が短くなる程度のものだと思われた。
 ところが、12時間のフライトのあと、フランクフルトからベルリン・テーゲル空港に出発する便が悪天候のせいか大幅に遅れた。遅れただけで済んだのは幸運だったと思うべきか。別のツアーのポルトガルへの乗り継ぎは断念したとの情報が入る…ようやくベルリンのホテルに着いたのは深夜12時過ぎ…



 とにもかくにも、ドイツにたどり着いた。ゲーテ、ヘッセ、トーマス・マン、ケストナー、ギュンター・グラスのドイツに。森鴎外『舞姫』の舞台、激動の現代史の舞台、憧れ続けたベルリンに。
 簡素な、しかし実用的なホテルの部屋で、まず最初の眠りにつく…


ドイツ2日目。朝、ホテルの部屋の窓から外の景色を見る。ベルリンの日常が進行する。トラム(路面電車)が走る。




朝食はパン・ハム・ソーセージ・チーズ・ヨーグルト・オレンジジュース・コーヒー。すべて、お世辞抜きで美味しい。ヨーロッパの旅では、朝食はいつでも合格点だ。今までも外れたことがない。




午前中はベルリン市内観光。気さくな運転手ヨーゼフさんの運転技術は完璧、気配りも満点。たった8人(プラス添乗員)で大型バスの旅は快適というほかない。

まず訪れたのが、「ブランデンブルク門」。プロイセン王国の凱旋門としてアテネ神殿の門を手本に18世紀に建造されたこの門は、東西分裂時代は壁が築かれていたため通ることはできなかった。198911月、東ベルリン市民がこの門を通る姿を、私もたしかにテレビで目撃した。




続いて、「テロのトポグラフィー」という展示館を訪れる。ナチスの恐怖政治について解説する写真を中心に展示している建物で、ナチス親衛隊(SS)と国家秘密警察(ゲシュタポ)の跡地に建てられているが、このすぐ前に「ベルリンの壁」が、当時の姿を残したまま保存されている。 




そのあとバスは「ユダヤ人犠牲者記念館」の横を通過する。記念碑として2711本のコンクリートブロックが並び、地下には記念館がある。NHKEテレの「旅するドイツ語」で紹介されていた場所で、ぜひ訪れたいと思っていたが、今回はバスの窓からシャッターを切るのみ…




行きたい場所はまだまだいくらでもあった(たとえば「森鴎外記念館」や「ベルリン大聖堂」や「映画博物館」など)。だがこのツアーの限られた時間では、街をバスで駆け抜けるだけだ。

昼食はカフェ(かつバーでありレストラン)で魚料理。それと、もちろんベルリンのビール(「ベルリナー・ピルスナー」)。今回の旅で狙っていた現地のピルスナーと早速遭遇。予想通り、ほどよい苦味とさわやかな切れ味。ビールに関しては、幸先の良いスタートと言うべきか。




午後はベルリンと隣接するポツダムへ。言うまでもなく、ポツダム会談が行われた街。そしてフリードリヒ大王の夏の居城・サンスーシ宮殿がある街。ひそかに楽しみにしていた場所だ。

ポツダム会談の舞台「ツェツィーリエンホフ宮殿」は、プロイセン・ホーエンツォレルン家最期の皇太子とその妃のための宮殿で、1917年に完成。第2次世界大戦末期の194578月、ここで米・英・ソ連の首脳会談が開かれ、戦後処理が話し合われた。
トルーマン、チャーチル、スターリンの思惑が交錯したこの宮殿内部の撮影は、特別料金が必要。会議が開かれた部屋は、当時のままに保存されている。




続いて、「サンスーシ宮殿」に向かう。サンスーシとはフランス語で「憂いのない」という意味で、日本語では「無憂宮」と呼ばれる。フリードリヒ大王(フリードリヒ2世)は、1747年に作られたこの宮殿で後半生のほとんどを過ごした。
夏の観光シーズンには入場23時間待ちになるという宮殿だが、いまはシーズンオフ。階段状のブドウ園にも、まだ緑はない。しかし、不思議な美しさをたたえたこの景観はやはり必見。寒冷地でも育つジャガイモの栽培を奨励した大王にちなんで、ジャガイモが供えられた大王の質素な墓とともに記憶にとどめたい。




さて、バスはここから3時間、ひたすらドレスデンを目指して走り続ける。


 ドイツ3日目。ドレスデン。前の晩はホテルで夕食だった。当然飲み物はドレスデンのビール「ラーデベルガー・ピルスナー」。部屋の冷蔵庫(実はこの旅行中、冷蔵庫がない部屋も多かった。別に、なくても困らない気候だったが。)の中にもしっかりと、この世界的に有名な銘柄は完備されている。




 そして朝食。もちろん、パンもハムもソーセージもチーズも…美味しい。




 この日は、午後までドレスデン市内観光。ドレスデンの旧市街をめぐるこの日の日程が、今回のツアーのメインだった、と言っても過言ではないだろう。事前に見ることができた画像や映像を繰り返しチェックし、旅行した経験のある友人の話に耳を傾け、何ヵ月も前からひたすらイメージを作り上げてきた。
 しかし、バスから降りて「ゼンパーオーパー(ザクセン州立歌劇場)」前の広場に立ち、周囲の建物群を見渡した時、その想像以上の美しさ、重厚さ、風格に完全に圧倒された。鳥肌が立つ、とはこのようなときに使う言葉だろう。ため息しか出ない空白の時間のあと、ようやく私たちは歩き出した…




 「三位一体大聖堂」、「レジデンツ宮殿」、エルベ川沿いの「ブリュールのテラス」、「君主の行列」…「エルベ川の真珠」と呼ばれるドレスデンの旧市街をゆっくりと歩く。すべてがこのエリアに密集しているのだ。何という贅沢な時間だったことか。




 ドレスデンが生んだ、私の敬愛する文学者エーリッヒ・ケストナー(1899-1974)は、少年時代を描いた自伝『わたしが子どもだったころ』(1957)の中で故郷について次のように書いている。
 
  ドレースデンは、芸術と歴史に満ちた、すばらしい都会だった。しかし、六十五万のドレースデン人がぐうぜん住んでいた博物館ではなかった。過去と現在とがたがいに一つのひびきをなして生きていた。
…何が美しいかを、わたしは書物によって初めて学ぶにおよばなかった。学校でも、大学でも、学ぶにおよばなかった。山林官の子が森の空気を呼吸するように、わたしは美を呼吸することができた。カトリックの宮中教会、ゲオルク・ベールの聖母教会、ツヴィンガー、ピルニッツ城…
(『わたしが子どもだったころ』)

 しかし、この街は19452月の大空襲により多くの建物が崩壊し、廃墟と化した。ケストナーは、次のように続けている。

  …みなさんはだれも、たとえおとうさんがまだたいそう金持ちであっても、わたしのいうことが正しいかどうか見るために、汽車に乗って行くことはできない。なぜならドレースデン市はもはや存在しないからだ。
(『わたしが子どもだったころ』)

 戦後、そしてドイツ統一後、多くの建物が再建されていく。その象徴的な建物が「フラウエン教会(聖母教会)」だろう。
 1743年に完成したドイツ最大のプロテスタント教会は大空襲で崩壊したが、1994年に再建が始まり2005年によみがえった。白い外壁のあちらこちらに黒い石が混じっているが、これは空爆で破壊された当時の石。位置を特定する「世界最大のパズル」の末、このような形で再建された。教会の前には、ルターの像が立つ。




 ドレスデンには「ケストナー博物館」もあるが、これはエルベ川を挟んで対岸の新市街。訪問は諦めざるをえなかった…

 さて、ドレスデン旧市街の旅はまだまだ続く。「ツヴィンガー宮殿内アルテ・マイスター絵画館」と「陶磁器コレクション」についてはふれておこう。
 ラファエロの「システィーナのマドンナ」をはじめ、フェルメール、レンブラント、デューラーなど古典絵画の宝庫である「アルテ・マイスター絵画館」は、期待通りだったと言うべきだろう(しかも事前情報と違って写真撮影可だった)。フェルメールの「手紙を読む少女」が修復中だったのは残念だったが。




 マイセン磁器の名品が展示された「陶磁器コレクション」は、今回のコースの豪華付録といったところか。マイセンを訪れることはできなかったが、数多くの名品のオリジナルを鑑賞することができた。




 ドレスデンで、旅の目標の半分を終えてしまった…そのようにも感じたが、まだ旅は半ばどころか、始まったばかりだ。つぎの目的地ニュルンベルクまでは4時間。


ドイツ4日目。ニュルンベルク。前の晩は、ホテル到着前にビアホールで食事。「カイザーブルク城」駐車場から、夜のニュルンベルク市街を歩く。




 ニュルンベルクの名物ソーセージと「赤いビール」の夕食。このビールも狙っていた…




 そして、ホテルでサッカー観戦。ちょうど、ヨーロッパの最強クラブを決めるUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦が放映されていた。地元ドイツの雄バイエルン・ミュンヘンがイングランドのリヴァプールに粉砕される瞬間をリアルタイムで観る。ここはバイエルン州。次の日の新聞記事・テレビニュースのトーンは暗い…




 午前中はニュルンベルク市内観光。まず、バスの窓からナチス党大会会場跡「ドグツェントルム」を確かめる。レニ・リーフェンシュタール監督によって作られたナチスのプロパガンダ映画(ドキュメンタリー)『意志の勝利』(1934)は、この会場で撮影された。その面影を残す「ツェッペリン広場」を何とか撮影する。




 この日のドイツ(ここニュルンベルクだけではなかった)は寒かった。小雨と冷たい風の中、ゴシック様式の巨大な教会「聖ローレンツ教会」、中央広場「美しの泉」、そして広場の市場(白アスパラ・シュパーゲルがあったが、まだ地物の季節ではないようだ)の横を通ったが、寒さと疲労の為ボルテージは下がったままだ…




 ドイツ・ルネッサンスの大画家デューラーが住んでいた家を横目で見ながら、神聖ローマ皇帝の城「カイザーブルク」に駆け込む。天気は相変わらず悪い…

 次の目的地ローテンブルクまでは2時間。ここで、旅の前半は終了、といったところか。

 

<後記>

  まず「ドイツ紀行(上)~ベルリンからニュルンベルクまで~」を発信する。このあと、「ドイツ紀行(下)~ローテンブルクからライン川まで~」を発信する予定だ。そこまでたどり着いたら、次のことを考える




(harappaメンバーズ=成田清文)
※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、
個人通信として定期的に配信されております。