「『越境するサル』的生活 2014 ~青森市古川界隈を彷徨う~」
午前11時43分、単線ゆえの列車交換のため2分遅れで、特急「つがる3号」は青森駅に到着した。
往復ともに特急を使おうと決めていた。時間の問題ではな い。座席でゆったりと地図を広げ、本を読み、原稿の下書きができる、そんな快適な列車の旅がしたかった。往復1020円分の贅沢。
観光客でそれなりに賑わう駅から、まっすぐに駅前複合施設「アウガ」に向かう。地下が市場、1~4階がテナントのこの施設の6~8階に青森市民図書館が 入っている。年に何度か、ここに立ち寄って文芸誌のバックナンバーをチェックするのが慣例となっていたが、時おり気になる評論と出会うことがある。バック ナンバーは貸し出し中の場合もあるわけだから、そういうときは文字通り「幸運な出会い」と言っていい。
この日、真っ先に手に取ったのは『新潮』の最新号(2014年9月号)だった。そして、書評「『有限性の近代』を生き抜くための処方箋― 加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』を読む」(上村忠男)の次の箇所が目にとまった。「加藤が敬愛してやまぬ吉本隆明のうちにも根づいていた 信憑」「すなわち、原発をもたらした原子力エネルギーの解放は人類が開発した科学技術の一大達成であって、それによって生じる問題には科学技術をいっそう 発展させることで対処する以外にない、という信憑」「その信憑が三・三一の原発事故をまのあたりにして瓦解してしまったことを加藤は認めざるをえなくされているのだ」…そうだ、加藤典洋だ。加藤典洋を読むべきだったのだ…
「3.11」以後、夥しい数の言説のなかで、ずっとうろたえている自分がいた。とりわけ若い頃から読み続けていた思想家・吉本隆明の「反・反原発」のスタ ンスに、どうしても納得することができず、彼の死(2012年3月)に際して私はその時点での自分の思いを文章にした(※注1)が、何かが欠落しているよ うな感覚は残り続けた。
むろん、吉本に対する根本的な批判の書も巷にはあふれていて、それはそれで説得力を持つものではあったが、私が読みたかったのは、かつて吉本の思想を全身 で受け止めていた人々が現在の吉本と格闘する姿であった。真摯に、誠実に、思想と向き合ってきた人々が、吉本に対してだけは「頑固な」とか「ブレがない」 という言葉でお茶を濁し、彼の誤謬の可能性に触れようとしない…そのように私には思われた。
そこへ加藤典洋である。『敗戦後論』(1997)以来、私は加藤の誤謬をおそれない提起の数々を、共感と反感の入り混じった気持で読み続けてきた。しばらく離れていたが、再び読み始めよう。そう思わせただけで、今回青森市民図書館に来た意味はあった。この後私は、『3.11 死に神に突き飛ばされる』(2011 岩波書店)・『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(2013 岩波書店)・『人類が永遠に続くのではないとしたら』(2014 新潮社)と、続けて読むことになる…
実は、春にも同じような出会いがあった。5月のことだ。
その日も、『すばる』・『群像』・『新潮』それぞれ何冊かのページをめくり、目次に目を通した後、『文學界』を4冊ほど手に取って長椅子に腰掛けた。たし か、台湾の映画人呉念眞について四方田犬彦が書いている評論があったはずだったが、その4冊の中にはなかった。しかし、ある連載評論が目にとまった。柄谷 行人「遊動論 山人と柳田国男」。ここから、柳田国男をキーワードとする小さな旅が始まった。
まず、柄谷行人の連載評論をまとめた『遊動論 柳田国男と山人』(2014 文春新書)をすぐさま購入し、自分の柳田に対する思いを確かめるように読みふけった。ちょうど、NHKEテレ『100分de名著』5月の放送が『遠野物 語』だった。私は2012年に遠野を訪れていたが(※注2)、その記憶を想い起こしながら、柳田の世界にしばし浸った。この小さな旅は、柳田についての評 論のアンソロジーである『文芸読本 柳田國男』(1976 河出書房新社)の再読を経て、柄谷行人編集の柳田作品アンソロジー『「小さきもの」の思想』(2014 文春学藝ライブラリー)の購入で一段落した。いつかまた柳田に向かう準備は出来た。
ところで私は、柳田と並行して、『遊動論』の隣の棚で見つけた『谷川 雁』(松本輝夫 2014 平凡社新書)の購入をきっかけに詩人・「工作者」であった谷川雁の年譜を確認し、さらに丸山眞男の著作と年譜の確認の作業も行っている。
何度も何度も繰り返し読んだ吉本の『共同幻想論』(1968)の素材として扱われた『遠野物語』、同じように繰り返し読んだ吉本の『丸山真男論』 (1963)で分析の対象とされた丸山眞男、とりわけ彼の主要著作である『日本政治思想史研究』(1952)、吉本の同人誌『試行』開始時の盟友であった 谷川雁。そう、私は半ば無意識的に、吉本隆明を相対化するためのスタート地点に向かおうとしていたのだ。 そして、今回の加藤典洋である…
もう、とっくに、昼飯の時間だった。
「アウガ」の「ニコニコ通り」口を出て、急ぎ足で古川1丁目の「青森魚菜センター」へ向かう。話題の「のっけ丼」で 新鮮な刺身を満喫しようとも思ったが、3日前に研修旅行の昼飯ですでに味わっていた。思い切って、「青森魚菜センター」裏通りへ。数軒並んでいる小屋がけ の店のひとつ、惣菜と「伝説のおにぎり」の店を目指す。午後だというのに、奇跡的に出来たての焼きおにぎり(サケのほぐした身をまぶした)を入手。これ で、昼飯は完了。次は、珈琲だ。
青森市で珈琲を飲もうと思ったら、「カフェ・デ・ジターヌ古川店」だ。食事を考えたら、あるいは語り合う場所として使うなら、他にいくつもふさわしい店は ある。だが、珈琲を飲むことだけを目標にするのなら、この店しかない。古川1丁目ニコニコ通り、青森駅までわずか数分。場所も便利だ。
迷わず「マンデリン・ブルーバタック」を注文する。マンデリンではあるが、こちらの先入観をくつがえすクリーンな切れ味。苦く重いマンデリンもいいが、こ ういう喉ごしのマンデリンもなかなかだ。実はこの2年ほど、この店では必ずこの銘柄と決めている。自家製のビスコッティもいい。ようやく、リラックスして 街に馴染んできた自分がいる。
次に向かう「シネマディクト」の上映時間予定表と、10月に板柳街で開催される「クラフト小径 2014」(「カフェ・デ・ジターヌ」も出店するそうだ)のチラシを入手して、いよいよ映画に向かう…
午 後2時過ぎ、同じく古川1丁目の映画館「シネマディクト」到着。夜店通りと国道が出会う角。昔の「奈良屋劇場」である。ひさしぶりに階段で3階まで上っ た。壁に貼られた夥しい数のポスターたちに見つめられながら、徐々に映画モードになっていく自分がわかる。お目当ての映画は、『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013 リティ・パニュ監督)。土人形で歴史を再現した、「ドキュメンタリー」である。
この春から「シネマディクト」で4本のドキュメンタリーを観た。『ある精肉店のはなし』(2013 纐纈あや監督)・『ROOM 237』(2012 ロドニー・アッシャー監督)・『アクト・オブ・キリング』(2012 ジョシュア・オッペンハイマー監督)・『革命の子どもたち』(2011 シェーン・オサリバン監督)の4本 である。それぞれの内容は季刊となった「今年出会ったドキュメンタリー」(『越境するサル』)で紹介している(あるいは紹介予定)のでそちらを参照してほ しいが、地方の映画館でドキュメンタリーを観ることができるようになったことは特筆に値する。もちろん、それぞれがそこそこの話題作であるから可能なプロ グラムなのだが。いずれ定期的にドキュメンタリーの上映会を弘前で企画しようと考えている私にとって、大きな刺激だ…
最近「シネマディクト」で出会った作品はドキュメンタリーだけではない。もともと、ミニシアター系の劇映画を観るためにこの映画館に通い始めたと言ってもいい。
6月、前述の『アウト・オブ・キリング』と同日、『そこのみにて光輝く』(2014 呉美保監督)を観た。原作者の佐藤泰志(函館出身)を追いかけ続けてきた(※注3)私にとって、この映画はどうしても観なければならないものだった。それも全国封切りからあまり遅くならないうちに。佐藤泰志原作最初の映画化作品『海炭市叙景』(2010 熊切和嘉監督)の際には、先行上映のために函館まで足を運んでいた。今回は日程的に函館行きが難しかったので、「シネマディクト」での上映はありがたかった。
1989年河出書房新社から刊行された著者唯一の長編小説『そこのみにて光輝く』は、三島賞候補作であり、文句なく彼の最高傑作である。北の街(もちろん 函館だ)の夏、争議の続く「造船会社」をやめた主人公達夫が、バラックに住む女千夏と運命的に出会う物語。多くの評者が指摘するように、「出会いの描き 方」の魅力は同時代の作家たち(中上健次や村上春樹や立松和平)をしのぐのではないかと思わせる作品だ。背景に「差別」の問題が見え隠れしていることもあ り、映画化は難しいのではと思っていたが、ぜひ映画化されたものを観てみたいとも思い続けていた。
そして映画『そこのみにて光輝く』。設定は多少変更されているが、「出会いの描き方」は原作同様魅力にあふれ、さらに佐藤泰志独特の「運命を引き受ける決 意」も原作以上に表現されていると感じた。監督呉美保、脚本高田亮、撮影近藤龍人、このようにしてひとつの小説が映画として作られていくのだと納得させる スタッフの力。そして達夫役の綾野剛、千夏役の池脇千鶴、その弟役菅田将暉の存在感。映画を観た後の高揚感は、いまだ続いている…
さて、『消えた画 クメール・ルージュの真実』である。
プノンペン生まれの監督リティ・パニュは、1975~79年のポル・ポト率いるクメール・ルージュ支配下のカンボジアで少年時代を送った。同時代の人々と 同じく、クメール・ルージュによる強制労働キャンプで飢餓と過労によって家族を失い、1979年、タイとの国境を抜けて逃亡、自らは生きのびた。その後フ ランスに移住し、やがて映画監督となる。ポル・ポト時代のカンボジアを題材とする多くのドキュメンタリーを発表し、そのうちの何本かは「山形国際ドキュメ ンタリー映画祭」に出品され高い評価を得ている。『消えた画 クメール・ルージュの真実』は、ポル・ポト時代の自分と家族の物語を、犠牲者が葬られている土から作った人形で再現しようとする試みである。映像に残され ていない家族の記憶は甦るのか…2013年カンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉グランプリ受賞、本年度アカデミー賞外国映画賞ノミネート、ドキュメンタリー と劇映画の境界を越えた衝撃作だ…
すぐれた作品に出会った時、圧倒され打ちのめされて、しばらく呆然としてしまうことがある。最近では『アクト・オブ・キリング』(2012 ジョシュア・オッペンハイマー監督)に出会った時がこうだった。映画館を出た後、しばらく古川界隈を歩き回り、余韻を味わう。まだ午後4時台。日暮れまで、帰りの特急の発車時刻までたっぷり時間があった…
午後5時、私は、中央古川通りの居酒屋『侍』に居た。この店も含めて、「アウガ」を出てからすべて古川1丁目。『侍』は、青森市勤務時代、職場の同僚たち と通っていた店だ。32歳から43歳まで、まだ体力に任せてがむしゃらに生きていた時代…その後も何度か顔を出していたし、実はこの週にも訪れていたのだ が、店の開店と同時に入ると、妙に感傷的になってしまう。あれから16年か…
お通しの「イカバター焼き」をつまみながら、生ビールで喉を潤す。店の定番「ホタテ味噌焼き」といきたいところだったが、「宗八ガレイの唐揚げ」を頼んで いた。「ホタテ味噌焼き」は次でいい。今日はそのあと、「馬刺し(金木産)」で日本酒を銚子1本だけ飲んで、駅に向かおう。午後6時46分発「つがる10 号」。まだもう少し時間がある。女将さんと昔話をしながら、酒をすすっていると、外からねぶた囃子が聞こえてきた。町内のねぶたの運行があるのだと言う。 店の外に出て、ねぶたの行列を待ち受ける。まるで旅人のようだと思う。行列が通り過ぎたら、駅へ向かう…
本と、珈琲と、映画と、酒と。いつもと同じようで、いつもと違う、1日が暮れていく。
(※注1) 『越境するサル』№102「『越境するサル』的生活 2012~吉本隆明の死と『リトル・ピープル』と~」参照。
http://harappa-h.org/modules/xeblog/?action_xeblog_details=1&blog_id=516
(※注2) 『越境するサル』№105「旅のスケッチ~『遠野物語』の故郷へ~」参照。
http://harappa-h.org/modules/xeblog/?action_xeblog_details=1&blog_id=527
(※注3) 佐藤泰志について過去に書いたものは、次の『越境するサル』№92「『海炭市叙景』、函館先行上映」を参照してほしい。<付録>として、№39「佐藤泰志、きみの鳥はうたえるか?」と№65「『佐藤泰志作品集』、17年ぶりの再デビュー」の2本も収めている。
http://harappa-h.org/modules/xeblog/?action_xeblog_details=1&blog_id=336
<後記>
今年の「『越境するサル』的生活』」は、青森市での1日についてである。ここ数年は、古川界隈だけでほとんど用事が済んでいるので、いつかそのあたりを書 かなければと思っていた。書きながら、自分の中に愛着のような感情が芽生えてきた。特に、居酒屋『侍』の存在は、日々大きくなり続けている。自分にも、 「懐かしい店」がある。しかもまだ現在形だ…まあ、ただのセンチメンタリズムだが、それでいい。 次号は、「今年出会ったドキュメンタリー」。テレビドキュメンタリーの比重は、ますます大きくなりそうだ。
(harappaメンバーズ=成田清文)
※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田清文さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。
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