2016年2月16日火曜日

【harappa Tsu-shin】「雪が見える万華鏡づくり」開催しました♪


みなさん、こんにちは♪
先週末はとても暖かく、すっかり雪も消え、、、まるで春がきたのようなお天気でしたね♪

さて、そんな春のようなお天気の中、「雪が見える万華鏡づくり」を開催してきました♪
田舎館村の「冬の田んぼアート」のイベント内での開催でした。
土曜日・日曜日ともたくさんの子どもたちが参加してくれました♪


まずは、雪の結晶についてお勉強。。。
いろんな形があって、とてもキレイです。

次はいよいよ万華鏡づくり!!
万華鏡は覗くとカラフルなイメージがあるかと思追いますが、
今回の万華鏡は、中に入れるのは透明なガラスカレット♪
なので、覗くと雪の結晶のように見えるのです♪

次は万華鏡の飾り付け♪
折り紙で雪の結晶の切り絵を作りました!!

雪の結晶を万華鏡に思い思いに貼ったら、
オリジナルの万華鏡が完成です!!

みんなで、自分たちの作った万華鏡を見せ合いっこしています♪

ちなみに、万華鏡の中を覗くとこんな感じです。。。

どうでしょう?
雪の結晶に見えますか?
回す度にいろんな形に変わってとても楽しいですよ♪

今週からまた雪が降り積もり、雪かきなど大変かと思いますが、
雪の結晶をじっくり眺めてみるのもいいですね♪




(harappaスタッフ=太田)

【越境するサル】№.143「『函館発 佐藤泰志映画祭』~上映会の誘い~」(2016.2.14発行)

 来月、201635日、第22harappa映画館として「函館発 佐藤泰志映画祭」が開催される。函館出身の作家・佐藤泰志の小説を原作とする2本の映画『海炭市叙景』(2010 熊切和嘉監督)と『そこのみにて光輝く』(2014 呉美保監督)の上映、そしてこの2本の映画の製作委員会代表・菅原和博氏のトーク。小さな小さな映画祭だが、市民が発信する映画のあり方を考える、充実のラインナップ

 
           「『函館発 佐藤泰志映画祭』~上映会への誘い~」

   佐藤泰志は、1949年函館生まれ。函館西高校在学中から有島青少年文芸賞2年連続優秀賞受賞など才能を発揮し、以降、同人誌や札幌の文芸誌『北方文芸』 を皮切りに小説を発表。81年から85年まで芥川賞候補に5度ノミネートされるが落選、89年、長編『そこのみにて光輝く』で三島賞候補となるが落選。 90年、自死。
   青春を描き続け、そしてその先にある人生を引き受けようとする主人公たちを描き続けた佐藤泰志は、その死後「忘れられた作家」となった。その作品も入手困 難な状態が続いた。だが、2007年、図書出版クレインによる『佐藤泰志作品集』全1巻の刊行によって、状況が一変した。奇跡とも言うべき「再発見」がな され、作品は次々に文庫化され、そして函館市民による作品の映画化が始まった

   『海炭市叙景』は、2008年、函館市民の製作実行委員会によって映画化が開始され、2010年に完成したオムニバス映画である。
   原作は、文芸誌『すばる』198811月号から904月号まで断続的に発表された連作で、函館をモデルとした<海炭市>に生きる18組の人々の物語。佐藤泰志の遺作である。
   映画には、この18篇の物語から5篇が選ばれている。原作とは少しずつ違う設定だが、造船所の職を失った兄とその妹が函館山で初日の出を迎える物語から始まり、それぞれ繋がり合う5つの物語は、まぎれもなく佐藤泰志の世界だ
   出演は、竹原ピストル・谷村美月・小林薫・南果歩・加瀬亮監督は『空の穴』(2001)・『ノン子36歳(家事手伝い)』(2008)の熊切和嘉、撮影は近藤龍人。

   『そこのみにて光輝く』もまた、函館市民の力によって製作された。2014年、第88回キネマ旬報ベストテン第1位をはじめ各映画賞で高い評価を受け、この年を代表する作品となった。
   原作は、著者唯一の長編小説。『文藝』198511月号に発表された第一部と、書下ろしの第二部を合わせて、89年に刊行された。
   造船所をやめた主人公達夫とバラックに家族と住む女性千夏との出逢いを描いた第一部と、その後を描いた第二部は、別な作品と言っていいほど異なった雰囲気 を感じさせるものだったが、映画では主人公の前職の設定を変え、第一部と第二部を大胆に合体させ、原作をしのぐ緊張感あふれる映像を作り出した。『海炭市叙景』とは別の、佐藤泰志の世界が私たちの前に示された
   出演は、綾野剛・池脇千鶴・菅田将暉・火野正平・伊佐山ひろ子監督は『オカンの嫁入り』(2010)の呉美保、撮影は近藤龍人、脚本は高田亮。

   今回の「映画祭」の目玉は、ゲストの菅原和博氏のトークだ。「函館市民映画館 シネマアイリス」代表であり、この2作の映画製作実行委員会代表として企画・製作・プロデュースに関わってきた氏は、函館オールロケの佐藤泰志映画3作目 『オーバーフェンス』(山下敦弘監督)を企画・製作、今年の9月公開を予定している。トークの中で、3作それぞれへの思いを語ってくれるはずだ。期待した い。

   日程は次の通り。

35日(土) 弘前中三8F・スペースアストロ 
  『函館発 佐藤泰志映画祭』
  13:00 『海炭市叙景』(152分)
  16:15 『そこのみにて光輝く』(120分)     
  18:15 菅原和博氏シネマトーク
前売 1000   当日 1200   会員・学生 500  
※1作品ごとに1枚チケットが必要です

店頭発売
  
弘前中三、コトリcafe(弘前市立百石町展示館内)、 紀伊國屋書店 弘前店、まちなか情報センター、弘前大学生協
   詳細は、次をクリックせよ。

<後記>

   佐藤泰志の小説と出会ってから20年が経過した。この間、佐藤をめぐる状況は、「忘れられた作家」から「再発見」・「再評価」、さらには作品の映画化と、 まるでドラマのように変遷した。そして、佐藤泰志原作映画の弘前自主上映。彼を追い続けてきた私自身にとっても、これはひとつのドラマだ。

以下、<バックナンバー>として、佐藤泰志に関する文章4本を年代順に掲載する。



<バックナンバー 

  『越境するサル』4(1996 青森西高校図書委員会だより『青い麦』)

  「函館にて」

   旅の途中、函館に立ち寄った。函館は私にとって特別な街である。現実に23歳から28歳まで、青森県の北端の町から函館山を臨んで暮らしフェリーボート 100分で往き来していたというだけでなく、訪れる時には架空の街に入っていくように、つまり物語の登場人物となってその街を歩くことができる、そんな街 なのである。
   今回、どうしても寄ってみたい場所があった。旧第一銀行を利用した函館市文学館である。
   市電「函館ドック」行きに乗り、「十字街」を過ぎて、「末広町」で下車、少し戻るとそこにたどり着く。入口から受付を通ってそのまま奥へ行くと、久生十蘭・今東光・今日出海など函館ゆかりの作家たちのコーナーがあり、2階は石川啄木である。
   訪問は2度目であった。前回はすべてのコーナーを欲ばってしまったが、今回はまっすぐに、亀井勝一郎とともに井上光晴が展示されている1階奥の展示室を目指す。(函館を北の拠点としていた井上については、別な機会に書く。)
   さて、その展示室を出るとすぐ右側の壁一杯に、『叙景』と題された厚塗りの絵が飾られている。広島出身のアーティスト高専寺赫の作になるこの作品は、函館 出身の作家佐藤泰志の遺作『海炭市叙景』(1991年出版)の表紙原画である。この場所が、私にとっての<佐藤泰志巡礼>の出発点となるー
   佐藤泰志は、1949年函館で生まれ、函館西高校在学中から有島青少年文学賞2年連続優秀賞受賞など早熟な才能を発揮し、以降、同人誌や札幌の文芸誌『北 方文芸』を皮切りに、文芸誌に小説を発表、1977年新潮新人賞候補、80年作家賞受賞、そして81年から85年まで芥川賞候補になること5度、89年に は長編『そこのみにて光輝く』で三島賞候補となる。しかし90年、自宅付近の植木畑で死体となって発見される。自死であった。享年41歳。
   彼の小説に出会ったのは3年前の夏の初めで、すでに彼はこの世になかった。知人にその存在を知らされ、定期購読していた雑誌『文藝』のバックナンバーから 作品を拾い、読み始めた私は、2日で5編の短編と出会い、そして打ちのめされた。主に短編集『大きなハードルと小さなハードル』(1991年出版)に収録 された作品群だが、そこにはまぎれもなく<青春の終わり>が、私の言葉でいえば<青春の続き>が、描かれていた。男と女、そして幼い子ども、苛酷な現実、 生そして夏の輝き・・・どうして今まで出会わなかったのだ。リアルタイムで読むべき作家だった。しかも私は、その雑誌を購読していた・・・この穴をうめる べく、私は動き出した。
   まず、手に入る著書の注文から始めなければならなかった。残念ながら書店にはほとんど置かれていない。1ヶ月後、5冊を手に入れた私は、満を持して短編集 3冊と長編『そこのみにて光輝く』を読破した。間違いなかった。かつて立松和平の初期の小説に感じたような、胸の高鳴りが、聞こえてきた。
   並行して、彼の初期作品が載っている『北方文芸』を求めて、札幌の古本屋街をうろついた。幸いなことに、北大正門前の古本屋の主人が倉庫の探索を許してく れ、『北方文芸』のバックナンバー8冊を手に入れることができた。こうして、単行本未収録の<青春>そのものの作品とも私は出会った。
   そしてその夏の終わり、遺作『海炭市叙景』と、私は向き合った。
   『海炭市叙景』は、雑誌『すばる』に198811月号から90年4月号まで断続的に発表された連作で、18の物語が書かれた。函館をモデルとしながら も、どこにでもある地方都市として設定された<海炭市>に生きる18組の人々の物語。それは、新年早々失業中の兄妹の<函館山>遭難の話から始まり、首都 から故郷に帰ってきた若夫婦や故郷を出てゆく者、この街に流れてきた者、そしてこの街で生まれ死んでいく者たちの<生>の物語群が続く、オムニバス映画の ような世界だ。
   発表されたのはちょうど作者の構想の半分の分量で、季節でいうと冬と春にあたる、ということであった。しかし彼の自死によって、夏の物語はついに書かれなかった。『海炭市叙景』は、未完のまま私たちに残されたのである。
   函館市文学館の「函館ゆかりの作家たち」の佐藤泰志のコーナーには、年譜や作品、同人誌、愛用の『広辞苑』とともに、『海炭市叙景』の創作ノートが展示さ れている。そのノートに貼り付けられた架空の<海炭市>の地図の中に、まだ書かれていない物語の登場人物たちが、うごめいているのだろうか。
   佐藤泰志の死んだ齢に、私は今年、たどり着いた。


<バックナンバー

  『越境するサル』 №39(2006.2.25発行)

   かつて、佐藤泰志という作家の小説を集中的に読んだことがある(注1)。1970年代から80年代を駆けぬけ1990年に自死を遂げたこの作家は長編短 編合わせて6冊の本を遺しているが、どうしてもそのうちの1冊が手に入らなかった。長い間そのことが心残りになっていたが、この2年ほどいくつかの図書館 の蔵書検索によってその本の題名と再び出会い、そしてついに読むことができた。1982年に河出書房新社から出版された『きみの鳥はうたえる』、著者に とって最初の単行本である。 
 
  「佐藤泰志、きみの鳥はうたえるか?」

   『きみの鳥はうたえる』には表題作「きみの鳥はうたえる」と「草の響き」の2編が収められている。1949年函館に生まれ高校時代すでに文学の世界で頭角 を現していた佐藤は、国学院大学在学中同人誌や北海道の文芸誌『北方文芸』に作品を発表し、1974年大学卒業後も東京で職を転々としながら作品を発表し 続けた。「草の響き」は『文藝』1979年7月号に掲載された(この年彼は自殺未遂を起こしている)。そして1981年、故郷函館に転居し職業安定所と職 業訓練校に通った佐藤が発表したのが「きみの鳥はうたえる」(『文藝』1981年9月号)で、第86回芥川賞候補作となる。『日本現代小説大事典』 (2004年、明治書院)に取り上げられた唯一の佐藤作品である。

   「きみの鳥はうたえる」の主要な登場人物は3人。本屋の店員の「僕」と、同じ店で働く佐知子、「僕」と同居する失業中の静雄、21歳の3人の共同生活とも いえる夏の日々が描かれる。ジャズ喫茶、ビートルズへの思い、深夜映画館、若者がたむろす酒場・・・70年代そのもののような舞台設定の中、出会い・揺れ 動く心・別れの予感・あやうい友情といった「青春小説」のすべての要素が詰め込まれたこの作品は、青春を描き続けた佐藤泰志の一つの到達点といえる。女1 人に男2人という「黄金の組み合わせ」によるストーリー展開は他の佐藤作品に比べてもリズミカルで、思わず映画化されたものを観てみたいという誘惑に駆ら れてしまう。
   そして私にとって、この小説との出会いは大きな意味を持つものとなった。彼の主要な作品の系譜がようやくつながったというだけでなく、一見救いようのない 状況を描いているかのように見える彼の作品の中に、一筋の光明のように出現する「希望」の存在を再確認できたということで。「きみの鳥はうたえる」の結末 も悲劇的で絶望的ではあるけれど、それらすべてを「希望」に変えるものの存在を感じさせる。それは何なのか・・・

   この後、「空の青み」(1982年)・「水晶の腕」(1983年)・「黄金の服」(1983年)・「オーバー・フェンス」(1985年)で4度芥川賞候補 となるが、ことごとく落選(注1)。いずれも「青春」をモチーフとした作品で、佐藤自身も「真新しく、魅力的な青春を描き出そうとすることが、当時の僕 には、かけがいのないことであった」(作品集『黄金の服』1989年出版・あとがき)と述べているが、やがて彼の作品は少しずつ「青春の終わり」に立ち向 かう男と女を描く内容のものに変貌していく。死後、作品集『大きなハードルと小さなハードル』(1991年出版)に収録された連作群(198589年) と、初の長編小説『そこのみにて光輝く』(1989年出版)がそれであり、主人公たちは生活や試練を引き受けようと決意していく。さらに未完のまま遺作と なった連作『海炭市叙景』(1991年出版)の連載も並行して続く(198890年)が、1990年彼は自死を遂げる・・・

   いま佐藤泰志の軌跡を追いかけながら、どうしても私はもどかしさを感じてしまう。彼の新作にもう出会えないからだけではない。彼の著書はすべて絶版で、書 店で眼にすることは出来ない。したがって、何らかの形で人々に彼の作品を手にとってもらわなければ、まるで私が架空の作家について書いているかのように自 分でも錯覚してしまいそうになるからだ。たとえば『大きなハードルと小さなハードル』に収録されている「納屋のように広い心」に登場する青函連絡船待合室 や青森市の駅前旅館の描写について、あるいは『そこのみにて光輝く』の舞台となっている「函館」(それは私たちが知らない「函館」だ)について、あるいは 『海炭市叙景』を映画化した場合のイメージについて、あるいは佐藤作品の辻仁成への影響について(佐藤は辻の高校の先輩にあたる)、私は人と語り合いたい と痛切に思っているが、語り合える人はごく限られている。
   この10年間で、佐藤泰志はさらに忘れられてしまった。

   この通信を受け取った皆さんへ。「佐藤泰志」を探してほしい。図書館(注2)で、インターネットで、さらに可能性は乏しいが、古本市場で。

注1)
   この5度にわたる落選によって、佐藤が大きなダメージを受けたことは想像に難くない。だがこの時期(私の20代から30代)、佐藤以外の多くの作家の多く の秀作が芥川賞受賞を逃している。試みに第81回(1979年上半期)から第100回(1988年下半期)までの20回(つまり昭和最後の10年間)か ら、注目すべき作家の落選作を抜き出してみよう。
   立松和平「閉じる家」(79年第81回)・「村雨」(79年第82回)、村上春樹「風の歌を聴け」(79年第81回)・「一九七三年のピンボール」(80 年第83回)、松浦理英子「乾く夏」(79年第82回)、田中康夫「なんとなく、クリスタル」(80年第84回)、島田雅彦「優しいサヨクのための嬉遊 曲」(83年第89回)(この作品を含めて6度ノミネート)、干刈あがた「ウホッホ探検隊」(83年第90回)(この作品を含めて3度ノミネート)、桐山 襲「スターバト・マーテル」(84年第91回)・「風のクロニクル」(84年第92回)、山田詠美「ベッドタイムアイズ」(85年第94回)・「ジェシー の背骨」(86年第95回)・「蝶々の纏足」(86年第96回)、多田尋子「白い部屋」(86年第96回)・「単身者たち」(88年第100回)(その後 4度ノミネート)、吉本ばなな「うたかた」(88年第99回)・「サンクチュアリ」(88年第100回)・・・ほんの一部だけを紹介してみたが、彼らはみ な芥川賞を逃している。受賞者・受賞作品と比べてみると、こちらの方が魅力的に見えてしまうのだが・・・

注2)
   各図書館の佐藤泰志関連図書冊数は次の通り(2006年現在)。
   青森市民図書館5冊、弘前市立図書館6冊、北海道立図書館7冊、函館市中央図書館6冊(ほかに郷土資料として遺作「虹」「星と蜜」掲載雑誌など保管)、仙台市立図書館(せんだいメディアテーク)6冊、国立国会図書館8冊。なおこの関連図書には『文学 1988』(講談社、日本文芸家協会編、「大きなハードルと小さなハードル」収録)・『有島青少年文芸賞作品集 風に』(1974年、北海道新聞社編、「青春の記憶」収録)・『きみの鳥はうたえる 佐藤泰志追想集』(1999年)が含まれている。


<バックナンバー

  『越境するサル』 №65(2008.2.2発行)

   以前、函館出身の作家佐藤泰志について書いたことがある(『越境するサル』№39)。199041歳で自死を遂げた佐藤泰志は、多くの根強いファンを持ちながら単行本6冊はすべて絶版のままで、その作品が多くの人の眼にふれることはなかった。
   ところが昨年10月9日(彼の命日である)、「図書出版クレイン」という小さな出版社が『佐藤泰志作品集』全1巻を刊行した。奇跡とも言うべき、復刊であった。
 
  「『佐藤泰志作品集』、17年ぶりの再デビュー」

   『佐藤泰志作品集』は、四六版ハードカバー・688ページ・二段組・3465円(税込み)、手にずっしりと重みを感じる堂々たる一冊である。
   収録作品は小説が10編(括弧内は雑誌発表年)。「海炭市叙景」(1988-90年)・「移動動物園」(1977年)・「きみの鳥はうたえる」(1981年)・「黄金の服」(1983年)・「鬼ガ島」(1985年)・「そこのみにて光輝く」(1985年)・「大きなハードルと小さなハードル」(1987年)・ 「納屋のように広い心」(1988年)の主要8作品と単行本未収録の「星と蜜」(1990年)・「虹」(1990年)の2作品、これで彼の小説世界のほぼ すべてが見通せる構成だ。これにエッセイ7編と詩6編が加わり、福間健二による解説・詳細な年譜・著作目録、さらに佐藤作品にこだわりを持つ4氏による エッセイが載った折り込み付録。そして装画は読者にはおなじみの高專寺赫。
   ずっと復刊を待ち続けてきた読者(さらには未来の読者)にとって、ほとんど夢のような内容の作品集である。定価の3465円も、古書市場での佐藤作品の価値を知っている者には決して高くはない。
   「図書出版クレイン」は、社長の文弘樹氏がひとりで編集長と営業マンを兼ねる小さな出版社だという。過去に加藤典洋やエドワード・サイードの著作を、最近では『金鶴泳作品集』を出版している。

   こうしてこの作品集の概要を記述しながら、少し高揚した気分になっている自分に気付く。本が出版され、そして私が購入してから、しばらく時間が経過しているにもかかわらず、まだ私はある種の興奮状態のままなのだ。
   たとえば、かつて私はこう書いた。「いま佐藤泰志の軌跡を追いかけながら、どうしても私はもどかしさを感じてしまう。彼の新作にもう出会えないからだけで はない。彼の著書はすべて絶版で、書店で眼にすることは出来ない。したがって、何らかの形で人々に彼の作品を手にとってもらわなければ、まるで私が架空の 作家について書いているかのように自分でも錯覚してしまいそうになるからだ。」
   また、自らの古書店での佐藤泰志探しの体験を語り、公共図書館の蔵書状況を知らせ、皆に読んでほしいと呼びかけた。佐藤泰志について語り合おうと呼びかけた。
   ようやく、「もどかしさ」を払拭する条件が、人々と語り合うための条件が、整った。それも唐突に。

   この本の出現は、どのような反響を呼び起こしたのだろうか。試みにインターネットで「佐藤泰志作品集」を検索してみれば、出版自体がひとつの事件であり、ある伝説の始まりのような受け取り方をされていることに気付く。
   検索して真っ先に出てくるのは、2007年9月20日付のあるブログの記事である。缶ビールを持って「図書出版クレイン」を訪れたことを報告する内容なの だが(実にいい文章で、これだけでひとつの短編小説のようだ)、その中で社長の「文さん」が「来月(つまり10月)」出版する『作品集』の追い込みに入っ ていることを告げる。そして、この本に対する思い入れを語り、佐藤泰志の奥さんと長男に会ってきたことを報告する。
   10月の出版後、少しずつ『作品集』の話題が個人やインターネット古書店のブログに載るようになる。みなこの本の出版をひとつの事件として紹介し、自分の 思いを語っているのだが、その紹介の仕方は一様にあたたかく、版元を応援したいという気持ちがあふれている。いかにこの復刊が待ち望まれていたか、よくわ かる。
   佐藤泰志の家族の言葉も、ブログの中に見つけることができた。20071026日付のそのブログには次のような文章が載っている。「先日17年振りに父の本が出ました。分厚くて辞書のような本・・・とても持ち歩けないサイズですが ぎゅっと作品が詰まった、大切な本。 私の人生の中で、父の事は今までずっと触れずに来たのですが この出版を機に、きちんと読んでみたいと思っています。」

   もちろん各新聞社も、「書評」欄で次々に取り上げている。以下、掲載順に紹介してみる(すべて2007年)。
   10月9日、『作品集』発売日に佐藤の故郷のメディア『北海道新聞』が紹介記事を載せる。「近年評価が高まっていたが、作品はすべて絶版となっており、没後十七年で初めて、その業績が見渡せるようになる。」
   1025日、『朝日新聞』。「小さな出版社が、大きな仕事をしている。」(加藤典洋<文芸時評>)
   1113日、『読売新聞』。「どこへ向けてよいか分からない青春のエネルギーや鬱屈を描き出した抑制された筆致は、深い共感を今も多くの人に抱かせるだろう。」(「きみの鳥はうたえる」について)
   1118日、『朝日新聞』。「入手がきわめて難しい著者の作品を、なんとかして新しい読者へ手渡したいという、小さな出版社の志を感じる1冊。」
   1124日、『東京新聞』。「価値が正当に認められない作家を復活させる仕事には誇りを持っていい。」
   1126日、『毎日新聞』。「その小説集の大部分は、絶版、品切れとなり、長らく、新しい読者が産まれてこないことが、佐藤泰志のファンとしては物足り なかったのだが、ここにようやく彼の小説が再び日の眼を見ることになったのである。」(川村湊。なお、川村湊は『文學界』2008年1月号にも書評を載せ ている。)
   12月2日、『西日本新聞』。「いい作品を書いた者は、こうしていい作家として、生き返ってくるのだな」(佐藤洋二郎。なお、佐藤洋二郎は佐藤泰志と同年齢ということで、彼をつねに意識していたという。)
   12月9日、『北海道新聞』。「よくぞ復刊してくれた。・・・中上健次や村上春樹とほぼ同じ世代になる。・・・青春を描いた小説が多い。はなやかな青春と はいえない。社会の隅のほうで不器用に生きる若者たちのくすんだ日々が思いを込めて描かれてゆく。中上健次のように荒々しくはない。村上春樹のスマートさ もない。・・・」(川本三郎。なお、川本三郎は200612月に出版した『言葉のなかに風景が立ち上がる』の中で、佐藤の「海炭市叙景」を取り上げてい る。)
   1216日、『朝日新聞・北海道版』。「日曜ラウンジ」というコーナーで「芥川賞候補5回、函館の佐藤泰志」・「没後17年、ふたたび脚光」・「生活者 の視点に共感/作品集出版」の見出しとともにかなり詳しく紹介されている(函館支局・芳垣文子記者)。関係者へのインタビューも多方面にわたり、とりわけ 生前から交流があった詩人福間健二(今回の『作品集』の解説も担当)の「賞を取れなかったのは運の悪さもあるが、彼の真価を見抜けなかったジャーナリズム の側にも問題がある」という言葉が印象に残る。

   さて、今回の『作品集』出版の反響をチェックしていくうちに、今まで気づかなかった佐藤泰志に関するさまざまな議論(批評や読書会)の存在を知った。思っ ていた以上に注目されていたことにまず驚いたが、そこで展開されている議論の中に、同年齢である村上春樹との対比という視点が見え隠れしていることが気に なった。
   いずれ本格的に、村上春樹、さらには中上健次や立松和平と比較して論じられる日が来るのではないか。ならば私も、その日のために何度も読み返すべきだろう。


<バックナンバー

  『越境するサル』 №92(2010.12.2発行)

   1127日、全国公開(1218日より)に先駆けて『海炭市叙景』(2010年、熊切和嘉監督)の先行上映が函館で始まった。原作者の佐藤泰志を追いかけ続けてきた私にとって、逃すわけにいかない機会であった。 
 
  「『海炭市叙景』、函館先行上映」

  1127日、土曜日、午前1049分函館着。奇跡的に天気は晴れ。
   駅前のホテルに荷物を預け、市電で五稜郭エリアに向かう。揺られること20分弱、市電を降り地図をたよりに、71席の小さな劇場、市民映画館「シネマアイリス」を目指す。10分ほど歩いただろうか。ついにたどり着いた、『海炭市叙景』先行ロードショー・・・
   チケットとパンフとシナリオを慌ただしく買い込み、手刷りの「海炭市通信・号外」とアンケート用紙を受け取り、ホットコーヒー(「水花月茶寮」の)をすすりながら、その日2回目の開始を待つ。
   やがて、整理番号順に2列に並んだ私たちの横を、9時20分開始の1回目の観客たちが通り過ぎ、入れ替わりに私たち2回目の観客が入場。
   12時ちょうど、映画は始まった・・・

   1991年に出版された佐藤泰志『海炭市叙景』は、函館をモデルとした架空の地方都市「海炭市」が舞台の短編連作集である。「第一章 物語の始まった崖」と「第二章 物語は何も語らず」それぞれに9つ、合わせて18の物語が収められている。
   失業中の兄妹の<函館山>遭難の話から始まる「海炭市」に生きる人々の18の物語は、作者の構想のちょうど半分の分量にあたる。1990年の作者の自死によりこの連作は中断され、『海炭市叙景』は未完の遺作として私たちに残された。
   長い間絶版となっていたこの作品(彼のすべての作品がそうだったのだが)は、2007年に出版された『佐藤泰志作品集』(全1巻、図書出版クレイン)に収 録され、さらに今回の映画化に伴って待望の文庫化(201010月、小学館文庫)がなされ、ようやく人々の眼にふれるようになった。
   この文庫化をきっかけとして、10月から佐藤泰志作品の何度目かの再読を試みた。『海炭市叙景』と、そこに向かう、あるいは同じ時期に書かれた1980年代後半の作品群。
   「きみの鳥はうたえる」(1981年)から「オーバーフェンス」(1985年)まで、佐藤は5度芥川賞候補になりながら落選するが、それらの「青春を描き 出そう」とした作品群から「生活と試練を引き受けようとする」主人公たちの物語(私はかつてそれを「青春の終わり」と呼んだが)へと、佐藤作品は変貌をと げていく。
   作品集『大きなハードルと小さなハードル』に収録された連作(198589年)や長編『そこのみにて光輝く』(1989年出版)がこの「生活と試練を引 き受けようとする」物語であり、それはそのまま『海炭市叙景』の達成(スケールの大きさと人間観察の緻密さにおける)へつながっていくように、私には思わ れた・・・

   映画『海炭市叙景』には、原作の全18篇の中から5篇が選ばれ映像化されている。もちろん原作と全く同じ物語ではなく、新たな人物も登場するし、設定も少しずつ違っている。しかし、この映画はやはり佐藤泰志の『海炭市叙景』なのだ。最初の数分で、それを確信した。
   冒頭を飾るのは、原作と同じで「まだ若い廃墟」。造船所の職を失った兄(竹原ピストル)とその妹(谷村美月)が初日の出を見るために<函館山>に登る、哀切極まりない物語だ。このエピソードが、小説と同じく映画全体を貫く柱となる・・・
   続く「ネコを抱いた婆さん」。産業道路沿いに住み、立ち退きの説得を拒み続けるトキ婆さん(中里あき)の存在感は圧倒的だ・・・
   3番目は「黒い森」。プラネタリウムで働く夫(小林薫)と水商売を続ける妻(南果歩)、さらには中学生の息子の三人家族の絆が失われていく物語。その絆は、かつてたしかにあったのだ・・・
   4番目は「裂けた爪」。父親からガス屋を継いだ若社長(加瀬亮)の日々の苛立ちが描かれる。うまくいかぬ新事業、再婚した妻の息子への虐待。ある日彼はガスボンベを足の指の上に落としてしまう・・・
   5番目は「裸足」。長年路面電車の運転手を務めてきた男(西堀滋樹)と、仕事で東京から帰ってきていた息子(三浦誠己)。あえて会わずにいた父と子は、墓参りでばったり会う・・・
   最後に、これらのエピソードが「海炭市の物語」という大きな物語の中に包摂されていくのだが、まだ映画を観ていない人のためにこれ以上の説明は避けるべきだろう。  
   原作とは違う構成だが、つながりあう5つの物語から、佐藤泰志が作品に込めた思いが伝わってくる。さらに、この映画製作を実現させた人々や、熊切和嘉監督たちスタッフの思いも。
   熊切監督の作品は『空の穴』(2001年)と『ノン子36歳(家事手伝い)』(2008年)の2本を観ただけだったが、大いに注目していた監督だった。特 に『空の穴』の風景と時間の流れ方が好きで、今回熊切監督とそのスタッフ(近藤龍人が撮影を担当した作品には衝撃を受け続けている)を起用したことは、ひ とりのファンとしてぞくぞくするものを感じた・・・

   この映画上映までの流れを公式サイトから拾ってみる。
   200812月、その前年『海炭市叙景』を読んだ函館のミニシアター「シネマアイリス」支配人・菅原和博氏が映画化を発案する。これが始まりである。
   2009年1月には、北海道帯広出身の熊切和嘉監督が本作の監督を快諾。有志による製作実行準備委員会発足。
   2009年2月、函館市民有志による製作実行委員会設立。市民参加型の映画づくりをスローガンに、イベントを通したPR活動と1千万円を目標とする募金活動がスタートする。
   2009年5月、解体が決まった「函館どっく」の大型クレーンの撮影が、クランクインに先立って行われる。函館の港に大型クレーンがある姿は、これが最後となる。
   2010年2月16日、クランクイン。エキストラを含めると500人以上の函館市民が出演。
   2010年3月20日、クランクアップ。
   ここから編集作業に入り、完成までこぎつけた映画は、映画祭や試写会で上映される。
   20101028日、東京国際映画祭で上映。
   201011月3日、佐藤泰志の母校・國學院大學で特別試写会。
   20101118日、函館(芸術ホール)で完成披露試写会。
   そして、1127日を迎えた・・・

   『海炭市叙景』の世界に浸った後、普通の観光客となって五稜郭公園に出かけ、復元された箱館奉行所の前を通り、ガイドブック片手に喫茶を探し当て、深煎り珈琲にありついた。
   もっとずっと先まで歩けば佐藤泰志の小説に出てくる産業道路に出るのだなと考えつつ、コーヒーを飲み、先ほど渡されたアンケートに答える形で映画の感想を書きつらねた。
   私たち観光客が出会う「函館」とは違う「函館」、いわば生活者の「函館」が、佐藤泰志の小説にも今回の映画にも描かれている。そして、ある時代のこの街の人々の生活者としての心情も。だがそれは、普遍的な「人間そのもの」の姿でもある・・・
   再び映画館に戻り、アンケートを手渡し(自分がこれまで佐藤泰志について書いてきた文章も添えて)、午後5時20分からの話題作『悪人』(2010年、李相日監督)を観た。これで「シネマアイリス」に別れを告げた。
   その晩、「大門横丁」で酒を飲み、翌日は一転して雪となった西部エリアをとぼとぼ歩き喫茶や施設を巡ったが、心はずっと『海炭市叙景』の景色やいくつかのシーンや音楽に浸ったままだった。
   雪のためか観光客もまばらな元町界隈を歩いていると、まるで小説のモデルとなった1980年頃の、いやもっと前の函館を歩いているような錯覚に陥った。それは、私が表面的にしか知らない街ではあったが、奇妙な懐かしさと親密さを感じたのだ。 
   佐藤泰志が東京から函館に帰ってきて滞在していた頃、私もまた津軽海峡をはさんだ対岸の小さな町で働き始めていた。フェリーボートで100分。人々は函館 の病院に通い、私も買い物に訪れた。私は20代だった。私がある懐かしさと親密さを、この街や『海炭市叙景』に感じるとしたら、その体験によるものだろ う。

   それは私のセンチメンタルな感情にすぎないのだが、センチメンタルでいいではないか・・・



(harappaメンバーズ=成田清文)
※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、
個人通信として定期的に配信されております。