毎年、この通信のもとになる精神生活(といっても、読書や映画鑑賞や街歩き程度だが)について「『越境するサル』的生活」という題名でエッセイ風に記述し、友人たちへの報告としている。
今年は、長い間こだわり続けてきた「あるテーマ」について考えるために、自分が「準備」する過程を報告する。
「『越境するサル』的生活 2015~5月までの日々~」
その日曜日、録画していたテレビ・ドキュメンタリー2本を午前中に観た後、軽い昼食とお決まりの珈琲(もちろんマンデリン)を済ませた私は、かねてより計 画していた午後のドキュメンタリー映画鑑賞に出かけるための準備を始めた。弘前文化センターで開催されている「脱原発弘前映画祭」の1本、酪農家の長谷川 健一氏の『飯舘村 私の記録』(2013)。長谷川氏が自らビデオカメラで撮影し続けた、飯舘村の原発事故後数ヶ月の記録を編集したものだが、上映後に長谷川氏の講演も予定 されているので、外すわけにはいかなかった。ちょうど、午前中に観たテレビ・ドキュメンタリーも原発を扱った作品だった。フジテレビで2014年に放送さ れた『揺れる原発海峡~27万都市 函館の反乱~』(FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品)。対岸で建設されている大間原発に対する函館市の訴訟を北海道文化放送が取材し制作したこの 作品は、私自身にとって無視できない内容だが、深夜にBSフジで放送されることを発見したのは本当に偶然だった。こういう偶然で、数々のドキュメンタリー と出会った。
「今年出会ったドキュメンタリー」を年4回発信するようになってから、ほぼ毎日1本、テレビ・ドキュメンタリー番組かドキュメンタリー映画のDVDを観るようになった。ほとんど飯を食うような感覚で、日常的に、録画しておいた、あるいは宅配レンタルの作品を消化する日々…
講演を聴き終わってすぐ、弘前図書館を目指す。
返却が2冊、内田樹『街場の戦争論』(2014)と『新潮』2015年3月号。借りたのは3冊、四方田犬彦『台湾の歓び』(2015)、内田樹他『この国はどこで間違えたのか 沖縄と福島から見えた日本』(2012)、内田樹編『街場の憂国会議 日本はこれからどうなるのか』(2014)。
『新潮』を借りていたのは、杉田俊介の評論「ジェノサイドについてのノートーリティ・パニュ、ジョシュア・オッペンハイマー、伊藤計劃」が掲載されていたからだ。昨年私が出会った『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013)のリティ・パニュ監督と『アクト・オブ・キリング』(2012)のジョシュア・オッペンハイマー監督に関する内容を含む評論とあっては、無視するわけにはいかなかった。
『台湾の歓び』は、台湾映画や台湾現代史の知識を私に与え続けてくれた四方田犬彦の初の台湾紀行。すでに読んでいた「台湾人の三人の父親」を含む「第一部 台北」と、「第二部 黒い女神を求めて」・「第三部 台南」で構成されている本書は、再び台湾と向き合うための基礎知識となるはずだ。実は、今年1月の「『越境するサル』「「丸谷才一『裏声で歌へ君が代』再 読~「台湾体験」の記憶へ~」発信以降、おそらく丸谷才一に影響を与えたはずの直木賞作家邱永漢(台湾出身)の短編小説を読んだり、いまの私にとって最も 重要な台湾映画の『多桑(トーサン)』(呉念眞監督 1994)を北京語字幕版で観たり…少しずつ、いつか再び台湾について考える時のための準備だけはしていたのだ。
そして、内田樹の著書および内田が関わるアンソロジー。この4月から5月、私は内田樹を含む何人かの人々の著 書を中心に、あるテーマのもと、かなり意識的に読書計画を立てて読み続けてきた。おそらく夏まではこのペースが維持されるはずだが、そのテーマとは「戦後 日本」だ。
昨年、加藤典洋の『3.11 死に神に突き飛ばされる』(2011)と『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(2013)の2冊を読んで以来、思想家・吉本隆明の「反・反原発」のスタンスに対する違和の感覚を自分なりに処理できるように なった。要するに、「吉本無謬神話」から脱却すればいいだけなのだ。吉本の「原発政策」に関する言説・分析は誤謬であり、そしてその誤謬は戦後の日本人が 「原子力の平和利用」という言葉に欺かれてきた歴史と同じ根を持つものである。そのように納得して、吉本のすぐれた著作に向き合い、一方で吉本の限界を超 えたものに関しては「吉本を頼りにせず」自分の頭で考える。前提となる条件が変わったら、結論を修正する…そう考えるようになってから、それは昨年の末あ たりからなのだが、「戦後日本」について書かれたいくつかの著作が気になり始めた。仕事のほかには、台湾とドキュメンタリー映画の企画とコーヒーと酒のこ とだけ考えていた頃だ。概略すると、次のような流れで読書計画は進んでいった。
2月末、自分が関わる企画「ドキュメンタリー最前線2015」の準備と並行して、赤坂真理『東京プリズン』(2012)を読み始める。アメリカ・メーン州 に留学(というより行かせられた)少女時代の経験を持つ主人公が、その過去と現在を往き来するファンタジー仕立ての小説だが、過去の時間で展開されるのは 「天皇の戦争責任」をめぐるディベートだ。彼女は「責任あり」の立場でアメリカ人聴衆の前に立つ…この小説を出発点として、読むべき書物を物色し始める。
3月、「ドキュメンタリー最前線2015」終了とともに用意した何冊かを、4月上旬から読み始める。まず、創元社「戦後再発見」双書の仕掛け人矢部宏治の 『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(2014)。続いて、「戦後再発見」双書第一弾である孫崎亨『戦後史の正体-1945-2012』 (2012)。「戦後日本」の政治がどれだけアメリカの意向によって作られてきたか、対米独立と対米追従のせめぎ合いの歴史を追及するこの2作によって、 このあとの流れは決定づけられた。やがて私は、「戦後再発見」双書第二弾『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(前泊博盛 2013)と第三弾『検証・法治国家崩壊-砂川裁判と日米密約交渉』(吉田敏浩/新原昭治/末浪靖司 2014)を読むことになるだろう。『戦後史の正体』の各論として。
ここまで、日米の、あるいは日本人の心の中の「ねじれ」について語る著作と向き合ってきた私は、4月中旬、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(2014 新潮社)を丹念に再読する。この「ねじれ」については、加藤典洋が『アメリカの影ー日本再見』(1985)・『敗戦後論』(1997)等で執拗に分析してきたテーマだ…
こうして私は、白井聡『永続敗戦論』(2013)にたどり着く。戦後日本のレジームの核心的本質が「敗戦の否認」にあるとし、その一方でアメリカに対する 盲従を続ける日本の戦後を「永続敗戦」ととらえる白井のこの著作との出会いは、今回の一連の読書のメインとなるものだった。そして引き続き、私にとっては 加藤典洋と同じくらい重要な位置を占める文芸評論家(および推理小説作家)笠井潔の『8.15と3.11 戦後史の死角』(2012)を読み終わったとき、この後に読むべき書籍の一群が眼の前にひろがってきた…
このあと、とりあえず8月まで、私は「戦後日本」について考え続けるだろう。「とりあえず8月」と書いたのは、8月以降、これらの著作の紹介をプロローグとする複数の発表を考えていたからだ。
ポツダム宣言受諾、新憲法制定、日米安保条約、日米地位協定、砂川判決…これら(すべて当たり前のように教科書に載っているものばかりだが)を私自身の授業の中でどのように教材化していくか。さらに映画『ゴジラ』(1954)と「第五福竜丸事件」の分析から、日本人の「原子力」と「平和利用」への想いについて考える。そのような発表を目論んでいた。その完成の目安が8月だった。
さて、このようにして5月まで、最近にしては珍しく読書に没頭する日々を送っていたのだが、実は5月には私的なイベント、それも大きなイベントがあった。 娘の結婚式である。そちらの方にもかなりのエネルギーを注ぐ必要があったし、実際相当の体力を費やしたわけだが、そんな中でも「『越境するサル』的生活」 と言える時間を持つことができた。それを紹介して、「5月までの日々」の締めくくりとする。
…5月下旬の休日、私は母とともに仙台青葉城址にいた。その前日仙台で行われた娘の挙式と披露宴のため家族そろって仙台に滞在していたが、父親としての大役もホテル宿泊と荷物発送の雑務も終え、最終日は新幹線の発車時刻までかなりの余裕があった。
なぜか、青葉城址に行きたかった。もちろん伊達政宗像を観るためだが、山の上にあるその場所に立ちたいと思ったのだ。家族はそれぞれ予定を立てていたが、私は母を誘い、タクシーで青葉山を登ることにした。
伊達政宗像に一番近い場所に駐車し、運転手さんに案内してもらって少し歩き、眼下にひろがる仙台市内の眺望を楽しんだ。私にとっては四十数年ぶり、母にとっては六十数年ぶりの景色だった。
その帰り道、運転手さんと母にお願いして、仙台市博物館に立ち寄った。東日本大震災復興祈念特別展「国宝 吉祥天女が舞い降りた!ー奈良 薬師寺 未来への祈りー」が開催されていたのだ。「薬師寺聖観世音菩薩立像」を、どうしても観たかった。実は3年前、修学旅行の引率で薬師寺を訪れた際、手違いがあって見逃していた。その後、後悔の念というか、無念の気持が大きくなっていた。
約束した時間は10分。母を車中に残し、小走りで階段を駆け上がり、チケット売り場を目指す。少し手間取ったが、チケットを右手に持ち一気に階段を走って 上り、特別展のエリアにたどり着く。すべてが魅力的な展示だが、目標はただひとつ、「聖観世音菩薩立像」。急ぎ足で、ひたすらその場所だけを目指す。そし て、ついに、対面することができた。合掌…そういえば、「唐招提寺鑑真和上像」(2004)や「平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像」(2000)にも、偶然この仙台市博物館で出会ったのだった…
お気に入りの仏像との、わずか3分ほどの対面。それでも、充分幸福な時間。そのような時間を「『越境するサル』的生活」と、私は呼ぶ。
<後記>
結局、8月に予定されていた「発表」は取り消しとなっ た。今後規模の小さな集まりでの「発表」は考えられるが、それほど急ぐ必要もなくなった。だが、私の中の「準備」はそのまま続けられている。何よりも、自 分のための「準備」であり、しかも情勢はかなり切迫している。
次号は「今年出会ったドキュメンタリー」、4-6月期。その後は未定。
今年は、長い間こだわり続けてきた「あるテーマ」について考えるために、自分が「準備」する過程を報告する。
「『越境するサル』的生活 2015~5月までの日々~」
その日曜日、録画していたテレビ・ドキュメンタリー2本を午前中に観た後、軽い昼食とお決まりの珈琲(もちろんマンデリン)を済ませた私は、かねてより計 画していた午後のドキュメンタリー映画鑑賞に出かけるための準備を始めた。弘前文化センターで開催されている「脱原発弘前映画祭」の1本、酪農家の長谷川 健一氏の『飯舘村 私の記録』(2013)。長谷川氏が自らビデオカメラで撮影し続けた、飯舘村の原発事故後数ヶ月の記録を編集したものだが、上映後に長谷川氏の講演も予定 されているので、外すわけにはいかなかった。ちょうど、午前中に観たテレビ・ドキュメンタリーも原発を扱った作品だった。フジテレビで2014年に放送さ れた『揺れる原発海峡~27万都市 函館の反乱~』(FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品)。対岸で建設されている大間原発に対する函館市の訴訟を北海道文化放送が取材し制作したこの 作品は、私自身にとって無視できない内容だが、深夜にBSフジで放送されることを発見したのは本当に偶然だった。こういう偶然で、数々のドキュメンタリー と出会った。
「今年出会ったドキュメンタリー」を年4回発信するようになってから、ほぼ毎日1本、テレビ・ドキュメンタリー番組かドキュメンタリー映画のDVDを観るようになった。ほとんど飯を食うような感覚で、日常的に、録画しておいた、あるいは宅配レンタルの作品を消化する日々…
講演を聴き終わってすぐ、弘前図書館を目指す。
返却が2冊、内田樹『街場の戦争論』(2014)と『新潮』2015年3月号。借りたのは3冊、四方田犬彦『台湾の歓び』(2015)、内田樹他『この国はどこで間違えたのか 沖縄と福島から見えた日本』(2012)、内田樹編『街場の憂国会議 日本はこれからどうなるのか』(2014)。
『新潮』を借りていたのは、杉田俊介の評論「ジェノサイドについてのノートーリティ・パニュ、ジョシュア・オッペンハイマー、伊藤計劃」が掲載されていたからだ。昨年私が出会った『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013)のリティ・パニュ監督と『アクト・オブ・キリング』(2012)のジョシュア・オッペンハイマー監督に関する内容を含む評論とあっては、無視するわけにはいかなかった。
『台湾の歓び』は、台湾映画や台湾現代史の知識を私に与え続けてくれた四方田犬彦の初の台湾紀行。すでに読んでいた「台湾人の三人の父親」を含む「第一部 台北」と、「第二部 黒い女神を求めて」・「第三部 台南」で構成されている本書は、再び台湾と向き合うための基礎知識となるはずだ。実は、今年1月の「『越境するサル』「「丸谷才一『裏声で歌へ君が代』再 読~「台湾体験」の記憶へ~」発信以降、おそらく丸谷才一に影響を与えたはずの直木賞作家邱永漢(台湾出身)の短編小説を読んだり、いまの私にとって最も 重要な台湾映画の『多桑(トーサン)』(呉念眞監督 1994)を北京語字幕版で観たり…少しずつ、いつか再び台湾について考える時のための準備だけはしていたのだ。
そして、内田樹の著書および内田が関わるアンソロジー。この4月から5月、私は内田樹を含む何人かの人々の著 書を中心に、あるテーマのもと、かなり意識的に読書計画を立てて読み続けてきた。おそらく夏まではこのペースが維持されるはずだが、そのテーマとは「戦後 日本」だ。
昨年、加藤典洋の『3.11 死に神に突き飛ばされる』(2011)と『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(2013)の2冊を読んで以来、思想家・吉本隆明の「反・反原発」のスタンスに対する違和の感覚を自分なりに処理できるように なった。要するに、「吉本無謬神話」から脱却すればいいだけなのだ。吉本の「原発政策」に関する言説・分析は誤謬であり、そしてその誤謬は戦後の日本人が 「原子力の平和利用」という言葉に欺かれてきた歴史と同じ根を持つものである。そのように納得して、吉本のすぐれた著作に向き合い、一方で吉本の限界を超 えたものに関しては「吉本を頼りにせず」自分の頭で考える。前提となる条件が変わったら、結論を修正する…そう考えるようになってから、それは昨年の末あ たりからなのだが、「戦後日本」について書かれたいくつかの著作が気になり始めた。仕事のほかには、台湾とドキュメンタリー映画の企画とコーヒーと酒のこ とだけ考えていた頃だ。概略すると、次のような流れで読書計画は進んでいった。
2月末、自分が関わる企画「ドキュメンタリー最前線2015」の準備と並行して、赤坂真理『東京プリズン』(2012)を読み始める。アメリカ・メーン州 に留学(というより行かせられた)少女時代の経験を持つ主人公が、その過去と現在を往き来するファンタジー仕立ての小説だが、過去の時間で展開されるのは 「天皇の戦争責任」をめぐるディベートだ。彼女は「責任あり」の立場でアメリカ人聴衆の前に立つ…この小説を出発点として、読むべき書物を物色し始める。
3月、「ドキュメンタリー最前線2015」終了とともに用意した何冊かを、4月上旬から読み始める。まず、創元社「戦後再発見」双書の仕掛け人矢部宏治の 『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(2014)。続いて、「戦後再発見」双書第一弾である孫崎亨『戦後史の正体-1945-2012』 (2012)。「戦後日本」の政治がどれだけアメリカの意向によって作られてきたか、対米独立と対米追従のせめぎ合いの歴史を追及するこの2作によって、 このあとの流れは決定づけられた。やがて私は、「戦後再発見」双書第二弾『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(前泊博盛 2013)と第三弾『検証・法治国家崩壊-砂川裁判と日米密約交渉』(吉田敏浩/新原昭治/末浪靖司 2014)を読むことになるだろう。『戦後史の正体』の各論として。
ここまで、日米の、あるいは日本人の心の中の「ねじれ」について語る著作と向き合ってきた私は、4月中旬、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(2014 新潮社)を丹念に再読する。この「ねじれ」については、加藤典洋が『アメリカの影ー日本再見』(1985)・『敗戦後論』(1997)等で執拗に分析してきたテーマだ…
こうして私は、白井聡『永続敗戦論』(2013)にたどり着く。戦後日本のレジームの核心的本質が「敗戦の否認」にあるとし、その一方でアメリカに対する 盲従を続ける日本の戦後を「永続敗戦」ととらえる白井のこの著作との出会いは、今回の一連の読書のメインとなるものだった。そして引き続き、私にとっては 加藤典洋と同じくらい重要な位置を占める文芸評論家(および推理小説作家)笠井潔の『8.15と3.11 戦後史の死角』(2012)を読み終わったとき、この後に読むべき書籍の一群が眼の前にひろがってきた…
このあと、とりあえず8月まで、私は「戦後日本」について考え続けるだろう。「とりあえず8月」と書いたのは、8月以降、これらの著作の紹介をプロローグとする複数の発表を考えていたからだ。
ポツダム宣言受諾、新憲法制定、日米安保条約、日米地位協定、砂川判決…これら(すべて当たり前のように教科書に載っているものばかりだが)を私自身の授業の中でどのように教材化していくか。さらに映画『ゴジラ』(1954)と「第五福竜丸事件」の分析から、日本人の「原子力」と「平和利用」への想いについて考える。そのような発表を目論んでいた。その完成の目安が8月だった。
さて、このようにして5月まで、最近にしては珍しく読書に没頭する日々を送っていたのだが、実は5月には私的なイベント、それも大きなイベントがあった。 娘の結婚式である。そちらの方にもかなりのエネルギーを注ぐ必要があったし、実際相当の体力を費やしたわけだが、そんな中でも「『越境するサル』的生活」 と言える時間を持つことができた。それを紹介して、「5月までの日々」の締めくくりとする。
…5月下旬の休日、私は母とともに仙台青葉城址にいた。その前日仙台で行われた娘の挙式と披露宴のため家族そろって仙台に滞在していたが、父親としての大役もホテル宿泊と荷物発送の雑務も終え、最終日は新幹線の発車時刻までかなりの余裕があった。
なぜか、青葉城址に行きたかった。もちろん伊達政宗像を観るためだが、山の上にあるその場所に立ちたいと思ったのだ。家族はそれぞれ予定を立てていたが、私は母を誘い、タクシーで青葉山を登ることにした。
伊達政宗像に一番近い場所に駐車し、運転手さんに案内してもらって少し歩き、眼下にひろがる仙台市内の眺望を楽しんだ。私にとっては四十数年ぶり、母にとっては六十数年ぶりの景色だった。
その帰り道、運転手さんと母にお願いして、仙台市博物館に立ち寄った。東日本大震災復興祈念特別展「国宝 吉祥天女が舞い降りた!ー奈良 薬師寺 未来への祈りー」が開催されていたのだ。「薬師寺聖観世音菩薩立像」を、どうしても観たかった。実は3年前、修学旅行の引率で薬師寺を訪れた際、手違いがあって見逃していた。その後、後悔の念というか、無念の気持が大きくなっていた。
約束した時間は10分。母を車中に残し、小走りで階段を駆け上がり、チケット売り場を目指す。少し手間取ったが、チケットを右手に持ち一気に階段を走って 上り、特別展のエリアにたどり着く。すべてが魅力的な展示だが、目標はただひとつ、「聖観世音菩薩立像」。急ぎ足で、ひたすらその場所だけを目指す。そし て、ついに、対面することができた。合掌…そういえば、「唐招提寺鑑真和上像」(2004)や「平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像」(2000)にも、偶然この仙台市博物館で出会ったのだった…
お気に入りの仏像との、わずか3分ほどの対面。それでも、充分幸福な時間。そのような時間を「『越境するサル』的生活」と、私は呼ぶ。
<後記>
結局、8月に予定されていた「発表」は取り消しとなっ た。今後規模の小さな集まりでの「発表」は考えられるが、それほど急ぐ必要もなくなった。だが、私の中の「準備」はそのまま続けられている。何よりも、自 分のための「準備」であり、しかも情勢はかなり切迫している。
次号は「今年出会ったドキュメンタリー」、4-6月期。その後は未定。
(harappaメンバーズ=成田清文)
※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田清文さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。
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