7月の末、ポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の遺作となった作品『残像』(2016)を観た。映画館はもちろん青森市「シネマディクト」。
いつも以上に緊張した心持でスクリーンに向かったのは、ワイダ監督に対する思い入れのせいだ…
「アンジェイ・ワイダの遺言、『残像』」
2016年10月9日、アンジェイ・ワイダ監督急逝。享年90。その死の直前、『残像』は完成した。
主人公は、実在のポーランド人画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893-1952)。その晩年の4年間がこの映画で描かれている。
カンディンスキーやシャガールとも交流した前衛芸術家である彼は、創作と大学での美術教育に情熱的に打ち込んだが、スターリン独裁化ソビエト連邦の衛星国であるポーランドの政府は、芸術を政治に従属させようとする「社会主義リアリズム」に従うことを彼に要求する。
芸術家としての尊厳をかけて政府の芸術政策に反発する彼は、職場を追われ、少数の学生と友人たちを除く社会から完全に孤立し、当局の弾圧も激しさを増していく…
大学時代、不朽の名作『灰とダイヤモンド』(1958)に自主上映会で出会って以来、ポーランドの情勢とワイダ監督の映画制作について注視を続けてきた。1970-80年代、地方の上映事情ゆえなかなか作品に出会えない状況の中、『大理石の男』(1977)・『鉄の男』(1981)と問題作を発表するワイダ監督は私の中で光輝く存在であったし、東欧で地下水脈のように進行する民主化の動きの象徴でもあった。そして、1989年からの「東欧革命」が訪れる。
『鉄の男』以降も、ワイダ監督はポーランドの歴史を描くことを自らの使命として作品を作り続けた。晩年、ソ連軍によるポーランド将校虐殺事件を扱った『カティンの森』(2007)、さらに自主労組連帯の指導者ワレサ(のちの大統領)を描いた『ワレサ
連帯の男』(2013)を完成させた彼は、もう充分にその使命を果たした、と私には思われた。このあと、どのような作品を彼は考えているのか。そもそも健在なのか。実はそのヒントとなる映像が存在していた。
『残像』を観てから数日後、録画していたあるテレビ・ドキュメンタリーを観た。2015年にWOWOW(ノンフィクションW)で放送された『アンジェイ・ワイダ 若き映画人たちへ贈る言葉』。2度目だった。
ワイダ監督の「抵抗三部作」、『世代』(1955)・『地下水道』(1957)・『灰とダイヤモンド』の映像を紹介しつつ彼の足跡を追いかけ、当時の検閲の実態にもふれたこのドキュメンタリーは、ワイダが設立した映画の学校「ワイダ
スクール」に集う学生と監督との映画作りをめぐる様々な議論と交流に多くの時間をさいている。
このドキュメンタリー撮影当時、彼は88歳。すでに『ワレサ 連帯の男』を完成させていた。冒頭、インタビューにに答えて彼はこう語る。
「映画は私の人生そのものです…私には残された時間がありません…今起きていることを描きたいのですが…過去が私たちをつないでいるのです…私たちの体験 戦争 民主化運動 戦前のポーランドがどうだったか…こういった歴史の記憶が私たちをつないでいるのです…映画はそれを表現し社会と共に歩んでゆく義務があるのです」
さらに「ワイダ スクール」で、学生たちにこう語りかける。
「私の映画監督としての義務は死者の声を伝えることです…なぜならそれは、多くの過去の人の声、無念の思いでもあるからです…彼らの死があったことで、いま私たちが生きている…私たちは彼らよりだめな人間だ…彼らは勇敢で、その時起こっていたことを自分で引き受けた…その事実を伝えたいのです」
…『残像』は、主人公ストゥシェミンスキが学生たちと野外で語らうシーンから始まる。ストゥシェミンスキの情熱的な言葉、学生たちへの期待、学生たちのストゥシェミンスキに対する信頼。その後の悲劇的な展開に比べ、そこには希望があふれている。
そして私は、ストゥシェミンスキと学生たちの姿を、ワイダ監督と映画の弟子たちの関係と重ね合わせる。
<後記>
ワイダ監督の遺作を見届け、それについて書かなければならない。そのような思いで映画館に出かけた…最後の作品まで見届けよう、そう思っていた監督たちが次々に世を去った。アンゲロプロス、キアロスタミ、若松孝二。彼らについて、もう一度見つめ直す作業が必要だ。
さて、わが「harappa映画館」も、来たる9月16日(土)、上映会を行う。題して「忘れられない女性たち」。
詳細は、ホームページで。
<付録>
付録として、アンジェイ・ワイダ監督を扱った過去の『越境するサル』を掲載する。
『越境するサル』№47(2006.10.1発行)
1980年のポーランド。私にとって明らかに同時代史である「連帯」の闘いとその行方について、いつか辿ってみたいと思い続けてきた。その作業のスタートは、もちろんアンジェイ・ワイダ監督の映画『大理石の男』(1977年)と『鉄の男』(1981年)。まず、この2作品のビデオをじっくりと鑑賞することから始めよう・・・そう思ってからもう1年以上たった。
「大理石と鉄の男たち~ポーランドの市民革命~」
『地下水道』(1957年)や『灰とダイヤモンド』(1958年)で知られるポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(1926~)の1977年作品『大理石の男』は、スターリン主義・スターリン時代を告発した先駆的な作品である。しかも、のちの独立労組「連帯」の出現を予告する内容となっている。
主人公はふたりいる。ひとりは映画大学の学生アグネシカ。彼女はテレビ局の機材とスタッフを使って卒業制作のドキュメンタリーを撮影している。テーマは1950年代の「労働英雄」ビルクート。クラクフ郊外ノヴァ・フタ製鋼所のレンガ工で、レンガ積みの驚異的記録を持つ模範的労働者として国民的英雄とされ、やがて消えていった人物である。
博物館の地下室に放置されたビルクートの代理石像の発見を皮切りに、アグネシカは当時のニュース映画の調査、ビルクート周辺の人々への調査を重ねていく。この、ニュース映像と人々の回想の中にしか現れないビルクートが、もうひとりの主人公といえる。
実際のモノクロのニュース映画、あるいは当時のプロパガンダ映画に似せて作られた映像(その作品のクレジットには「助監督アンジェイ・ワイダ」の名も見える。自分もプロパガンダ映画に手を染めていたとの「告白」であるのか)を、アグネシカとともに観ることによって、人々の回想をアグネシカとともに聴くことによって、私たちもまた1950年代のポーランドを追体験する。ビルクートが自立して行動しようとしたために英雄の座から引きずり下ろされ、やがて理不尽な裁判を経て人々の前から消えていく過程(まるでカフカの小説のようだ)を追体験する。
そして、アグネシカの映画制作もまた挫折を余儀なくされる。政治的影響を恐れたプロデューサーに制作中止を通告されたのだ。だが、父親に励まされた(この父親が何とも優しく頼もしい。この映画に希望を感じさせる何かを感じるのは、このようなシーンがあるからだ)彼女は、ビルクートの息子を訪ねて、グダニスク造船所へ向かう・・・
『大理石の男』が日本で公開されたのは1980年9月、東京岩波ホールであった。すでにポーランド国内だけでなく世界中で記録的な観客を動員し、日本でも大きな話題となっていた。私が観ることになるのはずっと後のことだが、1980年当時の『大理石の男』をめぐる状況はリアルタイムで把握していた。いや、把握しようと努めていたと言った方が正確だろう。
1979年、下北半島の定時制高校(現在は閉校)に23歳で赴任した私は、当時町にひとつしかなかった書店に注文していくつかの雑誌を購読していた。最初に注文したのが『世界』・『朝日ジャーナル』・『日本読書新聞』の3誌(紙)で、しばらくの間かなり丹念に読んでいたように記憶している。世界と自分をつなぐ通路という意識があったのかもしれない。
岩波書店の月刊誌『世界』には、高校生の頃から信頼して読んでいた「パリ通信」(藤村信)が断続的に掲載されていた。東ヨーロッパのスターリニズム諸国の動向を追い続けてきた「パリ通信」の1980年は、もちろんポーランドの「連帯」をめぐる緊迫のレポートである。
「ポーランドー大理石の男たち」と題された通信(1980年11月号)において藤村信は、党官僚が形成する新しい特権階級(「ノメンクラトゥラ」)の対抗勢力として、知識人の運動と連携した労働者階級の組織・独立労組「連帯」が登場する過程をポーランド現代史の叙述とともに描き出す。そして最後の章において、『大理石の男』の上映が「一九八〇年夏にはじまる<革命>を予告し」たとして次のように記す。
「『大理石の男』のメッセージは明瞭です。それはポーランドの歴史的真実を人びとにつたえ、人びとが真実をうけとめたことです。検閲当局が上映に横槍をいれるまでの最初の六週間に人口三千五百万の国で約二百万人をこえる人びとが競ってフィルムに殺到し、ヴロツワフでは上映はしばしば拍手と喝采によって中断され、幕切れで観衆はいっせいに立ち上がってポーランド国歌を合唱しはじめました。それは芸術史上、政治史上における一大出来事でした。」
ポーランドの観客は、主人公の労働英雄ビルクートの中にポーランドにおけるスターリン主義の歴史をそのまま読み取り、最後にグダニスク造船所に向かうアグネシカの行動から1970年冬のグダニスク造船所反乱の挫折の記憶を読み取ったのだ。「連帯」の先駆けとなったのは、グダニスクのストライキ労働者による1970年冬の犠牲者を記念するための十字架の建立である。こうして、『大理石の男』のラストと、現実の<革命>がそのままつながっていく。
「パリ通信」は、以後1981年12月13日の軍事クーデターをはさんでポーランドについて書き続ける。「連帯」と政府(党)の交渉・農民と労働者と知識人の関係・党そのものの変化・軍事クーデターの過程・ポーランド戦後史の概略・ポーランド共産党の悲劇の歴史・軍政下の状況が報告(叙述)されていく。これらの諸論文をまとめたのが、『ポーランド
未来の実験』(1981年、岩波書店)と『春はわれらのもの 軍靴の下のポーランド』(1982年、岩波書店)である。この2冊に収められた通信を読み続けながら、私はグダニスクの労働者とレフ・ワレサたちの闘いをイメージしていたのだ。
『鉄の男』は『大理石の男』の続篇である。カンヌ映画祭でパルムドール(グランプリ)を受賞し、やはり全世界から注目された(もちろん政治的にもだ)。
『大理石の男』のラストに登場するビルクートの息子マチェク・トムチックとあの女子学生アグネシカが主人公で、ふたりは結婚(結婚式のシーンにはレフ・ワレサも「出演」している)してともに反体制の活動家という設定である。アグネシカを演ずるのは前作と同じくクリスティナ・ヤンダ、ビルクートとマチェク(二役)も同じくイェジ・ラジヴィオヴィチ。このふたりのラブストーリーと「時代」がテーマである。
物語は、酒浸りのジャーナリストであるヴィンケルが国家権力に脅しをかけられ、ビルクートの息子マチェクの信用を失墜させる情報を得るため彼とその周辺を探るところから始まる。ヴィンケルは、マチェクの妻アグネシカを獄中に訪ね、さらに政府との交渉只中のグダニスク造船所にも入り込む。この過程を経てヴィンケルは「改心」するのであるが、彼を狂言回しに記録映像・ニュース映画・『大理石の男』の断片等々とともに重要な回顧シーンが映画の中に現れる。1968年の学生スト、1970年の労働者反乱、ビルクートと息子の対立(それは学生・知識人と労働者の「同盟」の失敗をも示している)、そしてビルクートの死。これら回顧シーンによって、前作で不明だった部分が明らかにされる。
政府と「連帯」の交渉の実況(まさしく「実況」だ)の熱気を背景に物語は終幕に向かう。「連帯」は勝利し、アグネシカは釈放されマチェクのいる造船所にたどり着く・・・しかし映画のラスト、自動車で造船所を出る党幹部は次のように言い放つ。「協定など何の価値もない。強制的な合意に法的効力はない。ただの紙切れさ。」
軍事クーデターそして戒厳令の予感は、やがて現実となる。しかし、もはや後戻りすることができない時代の変化の一瞬、その時を、この映画はたしかに写し取った。
<後記>(№47の)
今回、2本の映画と「1980年のポーランド」に絞って語ってみた。その過程で、ワイダの他の作品、他のポーランド映画が観たいと、痛切に思い始めた。参考のため青森市民図書館から借りた『ポーランド映画史』(2006年、凱風社)と『アンジェイ・ワイダ 自作を語る』(2000年、平凡社)が、あまりにも面白かったからだ。しかしここは我慢して、早速次のテーマの準備をすることにしたい。
グダニスク、かつてダンツィヒと呼ばれたこの都市で生まれたある作家について次回書きたいと思う。その作家の名はギュンター・グラス。もちろん、例の「告白」をめぐる話だ。
(harappaメンバーズ=成田清文)
※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、
個人通信として定期的に配信されております。