2013年9月27日金曜日

【つむじ風】8号 「秋の朝」


 幼い頃より、うちで商売をしていた両親は忙しく、誰かの誕生日やらで外食する以外は、家族そろっての食事は滅多になかった。そんな私の食事相手は、テレビが多かった。これは悲しいことではなく、嬉しいことだった。

 今ではテレビは全く見なければ見なくてもいいのだが、面白いドラマを見てしまうと、見なくちゃいけない、続きが見たい、という気持ちにさせられる。知らなければ知らないで過ごせる。しかし、嘘から本当から情報の多いこの世の中、話題になっていることは、嫌でも目に耳に心に入ってくる。
 

そう、朝ドラこと連続テレビ小説「あまちゃん」

 実は、私はしばらく見ていなかった。脚本家の宮藤官九郎も言っていたが、話題になっているものは見たくないという天邪鬼な気持ちもあった。一回目を見逃してしまったのも原因である。でも、母は毎日見ていたようで、「キョンキョンの洋服いいわよ」なんて言っていたし、知人には一日三回見ているという人がいて、気になっていた。
 

そして、だいぶ後になってから見始めて、時には一日三回見るようになった。いやぁ、想像以上に面白かった。アキちゃんファンには悪いし豪華な役者陣だが、なによりも、小泉今日子と薬師丸ひろ子のツーショットのインパクトが強すぎ。私は、途中から見たにわかファンなのでお許しを。 キョンキョンはもちろん、ひろ子ちゃんはまさに角川映画全盛期の私たちのアイドルだったのでしょうがない。天野春子と鈴鹿ひろ美は、私より少しお姉さんである。しかし、ほとんど同世代。キョンキョンはアイドルの反逆者でありながら、アイドルを貫き通す希有な存在だと思う。あの、刈上げカットは今でも忘れられない。ひろ子ちゃんの唄は、いまだに時々歌わせてもらっている。

 私も、若い頃に母が演劇をやっていたこともあって、女優に憧れた時期もあった。しかし、人前で話すとすごく緊張するので、無理だなと思った。今も、やりたいことは沢山ある。私のだいたいの年はご想像いただけると思うが、雌の白文鳥と一緒に住んでいる、まだ暗中模索中の夢を見続けている、にがちゃんである。

 さて、明日はあまちゃんの最終話。どうなることやら。私は、冬子が登場すると睨んでいる。春子、夏、アキ(秋)、・・・だもの。そして、私は続篇反対派。にわかファンだし、今までの分を最初から見るという楽しみ方も出来る。とにかく、元気をくれるドラマである。じぇじぇじぇは、今年の流行語大賞だろうね。

(harappaメンバーズ=KIRIKO) 

2013年9月19日木曜日

【越境するサル】特別号「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (下)」(2013.9.19発行)

「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」、3回目の配信は6と7と「まとめ」。大江健三郎・中野重治・土本典昭への言及は、『越境するサル』のスタートから続いているテーマだ。彼らの「1979年」を語った後、「1979年へ」シリーズは中断している…

「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (下)」 

6 大江健三郎の70年代 (2008.11.3発行『越境するサル』№72) 

2008年4月以降、1979年の『同時代ゲーム』に至る70年代の大江作品を集中して読んでみた。『沖縄ノート』を含めたこの<大江体験>によって、1970年から現在に至る大江の軌跡が、自分の中でひとつにつながったように感じた。

1979年、大江健三郎は書き下ろし長編小説『同時代ゲーム』(新潮社)を発表する。神話学や文化人類学などに対する著者の関心が作品化された本作は、現在に至るまで大江の作品世界の骨格をなす「村=国家=小宇宙」(以下「村」とする)が本格的に創造された画期的作品である。

『同時代ゲーム』の主人公「僕」は、四国のある村の神主の息子である。彼は生まれる前から「村」の神話と歴史を書くことが決められており、彼の双子の妹もまた生まれる前から創建者「壊す人」の巫女となることが決められていた。紆余曲折の末、「僕」は「村」の歴史と創建の神話を妹に宛てた手紙という形式で書くことを決意する。こうして、6つの手紙で構成された壮大なスケールの「偽史」が叙述されていく。

幕藩体制下、四国の小藩から追放された人々が「壊す人」に率いられ海から川を遡って切り拓いた新天地。そこで彼らは農耕を始め、「壊す人」は巨大化して百年生きるが、やがて人々に暗殺される。しかし彼は再生と死を繰り返し、やがて大日本帝国との五十日間戦争を指揮する…この時空を超えた物語と兄妹の物語が錯綜しながら、『同時代ゲーム』はひとまず結末へ向かっていく。

ところで、私が『同時代ゲーム』を読むきっかけとなったのは、蓮實重彦の著書『小説から遠く離れて』(1989年)との出会いである。

蓮實はこの評論の中で、『同時代ゲーム』の他に村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982年)・井上ひさし『吉里吉里人』(1981年)・村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)・石川淳『狂風記』(1980年)・丸谷才一『裏声で歌へ君が代』(1982年)・中上健次『枯木灘』(1977年)を取り上げて分析し、これらの長編小説たちの次のような類似を指摘する。「双子」(もちろん「双子的」という意味だ)が黒幕的人物から「依頼」され「宝探し」を「代行」する。これがこの一群の「物語」の基本パターンである。

この評論に導かれるように、私はこれらの長編小説群を読み始めた。中でも『同時代ゲーム』の読後の昂揚感は圧倒的であり、以後長編小説に対する抵抗感が薄らいだという意味でも忘れられない作品である。また、私の大江への関心の原点ともなっている。

ここで、『同時代ゲーム』に至る1970年代の大江の小説作品をひとつひとつ見ていきたい。

1971年、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(『群像』10月号)と「死滅する鯨の代理人」(『新潮』11月号、のち「月の男」)の2本の中篇をに発表。この2篇は翌1972年、単行本『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(講談社)して出版される。

その冒頭の序文「二つの中篇をむすぶ作家のノート」には『セブンティーン』第二部「政治少年死す」(1961年)末尾の詩の一節<純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する>が引用され、この2篇が「純粋天皇」のテーゼをめぐる作品であることが示されている。それは、1970年11月25日の三島由紀夫割腹自殺を明らかに意識していると、読者に思わせるものだ。

「みずから我が涙をぬぐいたまう日」の主人公は、自分を肝臓癌だと信じ死を予感する男。彼は自分の生涯を妻(文中では「遺言代執行人」や「看護婦」と呼ばれる)に口述筆記させている。その内容は、彼の父が敗戦直後に徹底抗戦を企てる軍人らの指導者として決起し、市街戦で殺されてしまった記憶が中心となっている。作中、涙をぬぐってくれる「あの人」すなわち天皇と父が一体化し、「誤読」されやすい難解な作品とされる。

「月の男(ムーン・マン)」は、NASA有人宇宙基地から脱走した「ムーン・マン」とその同棲相手の「女流詩人」さらには「活動家」や「鯨学者」たちと主人公の「僕」とのドタバタ劇のような交流を描いた作品。アポロ11号打ち上げ、反捕鯨やエコロジカルな運動などが描かれているが、そこに「あの人」(つまり天皇=父)をめぐるテーマを絡ませている。

2篇の刊行は、天皇制と三島由紀夫事件を主題としていくことの宣言であり、三島の『憂国』(1961年)や『英霊の声』(1966年)と対になるべきものであると私には思われた(※注1)。

1973年、書き下ろし長編小説『洪水はわが魂に及び』(新潮社)発表。

主人公は、鉄筋コンクリート3階建の核シェルターに住む大木勇魚と5歳の息子ジン。勇魚は樹木や鯨の魂に呼びかける彼らの「代理人」を自任し、ジンは障害を持つ子供だが50種類の鳥の声を識別する耳の持ち主である。

このふたりの生活に、近所の映画撮影所跡に住む「自由航海団」の若者たち(当初は不良少年たちのように描かれる)が入り込む。彼らと接するうちに、勇魚も「自由航海団」(大災害に備え海に逃げるための船を準備している)に「言葉の専門家」として加わり、やがて内部の殺人事件から国家権力に追及され核シェルターに立てこもった彼らと運命を共にし、包囲する機動隊の放水と鉄球の攻撃を受ける。

リーダーの喬木、少年たち、「ドクター」、裏切り者として殺されるカメラマン「縮む男」、ジンの養育係をつとめる野性的で母性的な少女伊奈子・・・彼らの個性の描写と物語のテンポは、大江作品の中では例外的といえるほど生き生きとしたものだ。自分を滅ぼし、息子のジンを含めた何人かの者を生きのびさせる勇魚の姿に、「終末」に向けた大江の祈りのようなものが伝わってくる。

なお、この小説の執筆の過程で「連合赤軍内部リンチ事件」が起こったため、「連合赤軍」を先取りした内容(手を入れざるをえなくなった)が注目された(※注2)。

1976年、長編小説『ピンチランナー調書』を雑誌(『新潮』8~10月号)に連載。

主人公は、放射能被曝者で元原子力発電所技師「森・父」と頭蓋骨の欠損をプラスチックで覆っている息子「森」。この「森・父」に依頼された作家の「僕」は、彼らの新しい冒険を「ゴースト・ライター」として記録し続ける。

「森・父」は、10年前に再処理工場から核物質をトラック移送している途中「ブリキマン」たちに襲撃され、その際こぼれた液体によって被曝した。その後生まれた息子「森」と「森・父」は新しい冒険の中で年齢が「転換」する。さらに革命集団「ヤマメ軍団」の登場、反原発の集会、敵対党派のなぐりこみ、原爆私有をねらう「大物A氏」と 「森・父」の確執等々、荒唐無稽な展開の中に、障害を持つ子と父の一体化や革命党派同士の憎悪など奇妙なリアリティを感じさせる小説である。

さて、こうして大江は1979年の 『同時代ゲーム』にたどり着く。

見てきたように、70年代における大江の格闘の対象は「三島」であり「天皇」であり、さらに本人の意図かどうかはともかく「連合赤軍」であり革命党派同士の「内ゲバ」であった。それに、障害を持つ子との「共生」というテーマが絡み合い、現在に至る大江の文学の骨格が出来上がっていく。その過程を私(たち)は大江の70年代に見る。そしてその物語(『同時代ゲーム』の物語も含めて)は、何度も何度もくり返される。
 
このあと私(たち)は、「村=国家=小宇宙」作品群の頂点(かつ大江文学の到達点)ともいうべき『懐かしい年への手紙』(1987年)に向かって、彼の足跡を追うべきだろう。

(※注1)
『新潮』2008年8月号に掲載された小林敏明「想像される<父>とその想像的殺害ー大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』を再読する」は、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(以下『みずから…』と略記)を丹念に分析した秀逸な評論である。
小林敏明はこの中で、『みずから…』が三島由紀夫と大江健三郎の「天皇」をめぐる真摯な格闘の末の作品であり、大江の最新三部作にいたるまですえられている、回帰していかざるをえない原点的モティーフであるとしている。そして『みずから…』が単なる三島批判の作品ではなく、二人が政治的立場を異にしながらもきわめて接近した部分を持っていたことを明らかにしている。

(※注2)。
2008年7月、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)を観た(「盛岡フォーラム」)。『洪水はわが魂に及び』(以下、『洪水は…』と略記)を読んだのが4月から5月だったので、映画を観ながらどうしてもこの小説のストーリー・構成との相似が気になった。もちろん、「事件」そのものが閉鎖的な集団が行き着く結末を典型的に示している、ことがこれらの類似の原因である。「事件」を「実録」として丹念に映像化した若松作品は、『洪水は…』とともに「連赤」をめぐる重要な「批評」であるといえるだろう。


7 土本、中野重治の葬儀を撮る (2010.7.24発行『越境するサル』№89) 

2008年に亡くなったドキュメンタリー映画監督土本典昭は、1979年、『偲ぶ・中野重治ー葬儀・告別式の記録ー1979年9月8日』(以下、『偲ぶ・中野重治』)という作品を製作している。長い間、上映会等で出会いたいものだと考えていたが、なかなかその機会は訪れなかった。

2010年に入って思い切ってDVDを購入し、早速鑑賞した。土本典昭と中野重治、それぞれの作品に影響を受けている私にとって、大きな意味を持つ体験であった。しかも「1979年」である。

『偲ぶ・中野重治』は、1974年、神山茂夫の告別式における中野の弔辞のシーンから始まる。その中で中野は、「史実偽造、事実の抹殺に対して、いろいろな事を記録に残してほしい」と訴える。そして音楽(ゲオルグ・ザンフィル「パン・パイプ」)をバックに、中野の経歴と作品歴が示される…

1979年9月8日、東京青山葬儀場。壇上に置かれた遺骨、遺影、「中野重治全集」。小田切秀雄が司会をつとめ、8人の弔辞が続く。 山本健吉、国分一太郎、尾崎一雄、石堂清倫、臼井吉見、桑原武夫、宇野重吉、本多秋五。

「中野は羞恥心を持ち合わせていた」と語る山本、「本来来てよいはずの人が告別式に来ない」と語る国分、「立場の違いから批判されたが、近年病床の自分を見舞ってくれた」と語る尾崎、こみ上げる悲しみに弔辞を中断し中野の19歳のときの句を詠む石堂、「中野は、上質の人間的なものに対する心からの感動と、下等で非人間的なものに対する本能的な憎しみを持ち合わせた人だった」と語る臼井、「中野は、誠実と心のあたたかさ、戦う意志が渾然一体となった人物」と語る桑原、選挙の手伝いをした頃の想い出を語る宇野、「晩年は親鸞のようだった」と語る本多。

友人総代・佐多稲子による病状経過報告、喪主原泉の挨拶。ふたりはずっと手を握り合っている。

献げられたほおずきの実、朗読「雨の降る品川駅」、会葬者の群れ、さらに中野自身の朗読「わたしは嘆かずにはいられない」、故郷・丸岡町の墓所・・・映画はここで終了する。55分。
 
戦後日本共産党の文化部門の「顔」であり、「新日本文学会」のリーダーであった中野重治の晩年は、自らがその人生の大部分を献げた日本共産党からの除名という事件に大きく規定された。

除名処分に対する異議申し立てと党に対する批判的論説・行動、それが除名された1964年以降の中野の日々のほとんどすべてである。もちろん「全集」という形での文学的達成も、晩年の日々になされたのではあるが…

『中野重治全集』(筑摩書房、全28巻)別巻「年譜」を頼りに、中野の略歴を追いかけてみる。

1902(明治35)年福井県に生まれた中野は、金沢の旧制四高を経て22歳で東京帝国大学に入学(文学部独逸文学科)、同人誌を中心に詩作を続ける。その一方「新人会」でマルクス主義を学び、日本プロレタリア芸術聯盟・全日本無産者芸術聯盟に参加、『戦旗』の創刊・編集にも関わる。

1928(昭和3)年以降何度か逮捕される(この間、原泉と結婚、1931年には日本共産党入党)が、1934(昭和9)年「転向」して出獄、以後敗戦まで当局の監視を受ける。

1945(昭和20)年、日本共産党に再入党。以後、「アカハタ」文化部長、参議院議員、「新日本文学会」書記長と表舞台で活躍するが、所感派と国際派に党内が分裂した1950(昭和25)年のいわゆる「五〇年問題」(中野は国際派に属した)以降離党に至るまで、党内問題ではつねに非主流派的な立場に追いやられた。

1964(昭和39)年、日本共産党は部分的核実験停止条約に反対する党の決定に従わないことを理由に神山茂夫・中野重治の除名を決議。両名はこの決定を不当として共同声明を発表。その後両名は「日本共産党(日本のこえ)」の結成に関わる。

その間の党との軋轢を描いたのが、1964年から1969(昭和44)年にかけて書かれた長編小説『甲乙丙丁』である(※注)。

その他の代表作として、『中野重治詩集』(1931年)、『歌のわかれ』(1940年)、『むらぎも』(1954年)、『梨の花』(1959年)がある。

さて、ここまで記してきた中野重治の人生と、ドキュメンタリー映画作家土本典昭の人生がどこで交錯するのか。中野が、土本の水俣についての映画を高く評価していたことはたしかだ。だが、土本が中野を記録しようとしたのは何故か。このことを私なりに解明(というより納得)しようというのが、今回の通信の目論見である。

土本典昭・石黒健治共著『ドキュメンタリーの海へー記録映画作家・土本典昭との対話ー』(2008年、現代書館)巻末の「年譜」を頼りに土本の略歴を追いかけてみる。

1928(昭和3)年岐阜県に生まれた土本は、1946(昭和21)年早稲田大学専門部法科に入学(3年後、第一文学部史学科に再入学)、1947(昭和22)年「二・一スト」後に日本共産党に入党、全日本学生自治会総連合(全学連・武井昭夫委員長)の活動家として活躍する(全学連副委員長、財政・機関紙担当)。

1950(昭和25)年、コミンフォルム批判を受けて日本共産党が所感派と国際派に分裂した際は国際派に属した。そのため、翌年の国際派追放の流れの中で、武井委員長とともに副委員長の地位を追われる。

1952(昭和27)年、早稲田大学除籍。「山村工作隊隊員」として東京・小河内村へ行くが、小河内事件で逮捕、以後3年間裁判闘争を続ける(日本共産党党籍離脱は1957年)。

1956(昭和31)年、岩波映画製作所に臨時雇員として入社。翌年退社するが、以後フリーランスの立場で同社で記録映画(TVとPR映画)の演出を続けるとともに、羽仁進監督のスタッフとして働く。

1963(昭和38)年、長編ドキュメンタリー第1作『ある機関助士』、翌年第2作『ドキュメント路上』発表。60年代はその後、『留学生チュアスイリン』(1965年)、『シベリヤ人の世界』(1968年)、『パルチザン前史』(1969年)と続く。

70年代は、土本の代名詞となった「水俣」と関わり合った10年間と言うべきだろう。1970年撮影に入り、1971(昭和46)年、『水俣ー患者さんとその世界ー』発表。この作品を携えて3ヶ月、ヨーロッパを上映行脚。

以後、『水俣レポート1 実録 公調委』(1973年)・『水俣一揆ー一生を問う人びとー』(1973年)・『医学としての水俣病ー三部作ー』(1974年)・『不知火海』(1975年)と大作・秀作を作り続け、『わが街わが青春ー石川さゆり水俣熱唱ー』(1978年)に至る。

そして1979年、天草をロケハンしている途上、土本は中野の訃報をテレビで知る。葬儀の日に間に合うことがわかった土本は「有志の会」を急遽結成し、仲間の映画人と連絡をとる。こうして中野の葬儀は撮影された…
 
ここまでふたりの略歴を追いかけてきたが、こうして表に出ている人生を比較しただけでもいくつかの接点があることがわかる。

戦前の弾圧で「転向」を選択したが、時代の制約の中その後も書き続け、戦後は日本共産党に再入党しオピニオンリーダーとなる中野。戦後日本共産党に入党し、全学連の活動家として活躍した土本。

「五〇年問題」ではともに反主流派(国際派)に所属したふたり。中野はその後も非主流派として党内に残るが、1964年除名。土本は「不満分子」として(懲罰的意味合いもあったというが)「山村工作隊」に編入され逮捕、1957年党籍離脱。

文学者である中野、映画監督である土本、それぞれにとって「党」は愛と憎しみの対象であり「政治」(「革命」)は本来第一義的なものであった。しかし彼らふたりは表現者として生きた。「今の生き方は違う」という意識はあったにせよ、だ。

『偲ぶ・中野重治』の冒頭、「これは記録のために作った映画である」と字幕が出る。そして「史実偽造、事実の抹殺に対して、いろいろな事を記録に残してほしい」と訴える中野自身の映像が続く。

「党史」から消えた人々や事実を記録しなければならない。むろん「党史」だけに限るわけではないが、土本は使命感をもって「記録」に向かう。土本典昭・石黒健治共著『ドキュメンタリーの海へー記録映画作家・土本典昭との対話ー』の中で、土本はこの映画の製作動機について次のように語っている。

「あれだけの芸術家として人生を全うした人だったら、僕らの常識では、全国の人民とは言わないまでも、共産党をはじめ革命家の手によって厚く葬られるのが当然だと思うけど、共産党の指導部や幹部は<反党分子>として彼の葬儀には参加しない。まあそうなるかなとは思ったけど、党のそのときの考え方によって、革命家としての履歴を持った人が無視され、記録されないのはおかしい。それなら一矢報いよう、という思いはありました。」

中野の葬儀自体は、大手出版社の葬儀担当者が取り仕切った「ブルジョア化した葬儀」(と土本は言う)に過ぎない。だが、8人の弔辞の見事な切り取り方をはじめ、この映画の印象は(つまり表現は)、土本の作品の中でもひときわ鮮烈さを放っているように見える。
それが何故なのか、そして80年代の土本作品にどうつながっていくのか。いまの私には、まだそこまで展開することはできない。

(※注)
   『越境するサル』№1「記憶へ歩き続ける男」参照。

 8 とりあえずの「まとめ」として 

私の個人通信『越境するサル』で不定期的に発信された「1979年へ」シリーズは、どこへ向かうのかわからないまま中断された状態になっている。

今回ここで発表するにあたり、これまで通信として発信してきたものをひとつにまとめて体裁を整えてみたが、補足を加え、今後の見通しなどについて若干ふれてみたい。

1979年7月。私自身の教員生活は順調に進んでいた。本州最北端の町の定時制高校。全校生徒20数名の生徒たちとともに、文字通り「生活」していた。それはまるでドラマや映画の中の「小さな分校」の物語のようで、私は日々小さな興奮を覚えながらこの新生活にのめり込んでいたのだ…

まず、書かれるはずだった1979年の後半の簡単な記述(「クロニクル 1979年7月~12月」)を試みる。1月から6月に比べ私の記憶は曖昧となり、他の年との区別がだんだんとなくなっていく。

7月17日、中央アメリカ・ニカラグアのソモサ大統領、辞任してアメリカへ亡命。サンディニスタ民族解放戦線による左翼政権誕生。

8月15日、カンボジア人民共和国政府(ヘン・サムリン政権)がポル・ポト政権の犯罪を追及する人民革命法廷を開く。19日、ポル・ポトとイエン・サリに死刑判決(欠席裁判)。

9月7日、衆議院本会議で内閣不信任案が提出されたが、大平首相は解散権を行使し衆議院解散。10月7日、総選挙。自民党過半数を割るが、保守系無所属の入党によりかろうじて過半数を確保。自民党内派閥抗争が激化し「四○日間抗争」始まる。
  9月12日、人形峠で日本初の国産濃縮ウラン生産開始。
  10月26日、韓国の朴正煕大統領、夕食会の席上でKCIA部長に射殺される。
  11月4日、イランの首都テヘランでホメイニ派の学生がアメリカ大使館を占拠。
  11月9日、「四○日間抗争」が終了し、第二次大平内閣発足。
  12月10日、マザー・テレサにノーベル平和賞。
  12月27日、アフガニスタンでクーデター、親ソ派全権掌握。ソ連の軍事介入にアメリカ反発。

ひとつひとつの「事件」に、それぞれ1章を割くことが可能だ。

たとえばニカラグアについて、アメリカの軍事介入の歴史をまとめたあと、イギリス映画界の巨匠ケン・ローチ監督のニカラグア内戦をテーマにした映画『カルラの歌』(1996年)について語る…

たとえばカンボジアのポル・ポト政権について、その全貌と日本における報道のあり方を検証し、さらに私(たち)の受容の仕方を振り返る…

たとえば自民党の「四○日間抗争」について、現在の政治状況の出発点として検証し直す…

たとえば、濃縮ウラン生産と原子力政策の検証。たとえば、韓国の民主化の歴史の確認。たとえば、ノーベル平和賞の持つ政治性への言及。

そして、アフガニスタンへのソ連の軍事介入により引き起こされたその後の事態、つまり日本のモスクワオリンピックボイコット(もちろんアメリカ主導によって)等々… 

ここにあげた「事件」はもちろん氷山の一角であり、取り上げるべき事件は無数にある。

さて、「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」と題して「1979年へ」シリーズをまとめてみたが、このあと続きは書かれるのだろうか?

「1979年へ」シリーズは私の個人通信『越境するサル』の中で不定期的に発表・発信されたものだが、『越境するサル』自体が同じような問題意識で構想された通信であり、つねに「自分史」と「現代史」を重ね合わせて書くことを意図してきた。その中で特に「1979年」という年を意識して、そこを起点として1970年代と1980年代を振り返ろうとしたのが「1979年へ」シリーズなのである。

だから、このシリーズとして扱ってもいい内容のものはほかにもたくさんあった。そうしなかったのは、現在の出来事(たとえば映画化)を起点として記述する方法をとったからである。

そして今後も、現在を起点として過去を振り返るという形のものが多くなるはずだ。「1979年」という年に縛られずに自由に過去と現在を往来できるからだ。

だが、今回「1979年へ」シリーズを通読してみて、この方法の面白さを実感しているのも確かだ。

「同時代史叙述の試み」のひとつとして、提出する。


<後記>
 次の発信は、10月の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の後になる。 「『越境するサル』的生活 2013」という形で、映画祭の報告以外の内容も充実させてみたいと考えているのだが、どうなることやら…

(harappaメンバーズ=成田清文)
※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田清文さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。

2013年9月14日土曜日

【つむじ風】7号 「テラヤマの引力」

 

私が初めて「寺山修司」を知ったのは、上京した後である。ある人物と出会い、その人は太宰治も寺山修司も大好きだった。特に、寺山について詳しかった。青森県出身でありながら、知らなかったことを恥じた。


 それから、帰郷した時に青森の図書館から寺山の本を借り、時間のある時にノートに書き写し、東京に戻る前に返却した。強烈に好き!という感じではなかったが、なんとなく惹かれるものがあった。


 そして、一九九八年十一月一日、私は季節外れの里帰りをすることになった。それは、一日限りの市外劇「人力飛行機ソロモン・青森篇」が、行われたからだ。


 参加者には、寺山のお面と地図とチョークが渡された(松山篇では、正岡子規のお面が配られたらしい)。アラーキーがいたり、宇野亞喜良氏がいたり、ジャンケンする者や手旗信号していたり、市内の中心部を通行止めにして、あちらこちらで市外劇が行われていた。確か、私はチョークで「寺山さん、みていますか?」、なんて書いたような気がする。最後は、青森文化会館()の舞台に皆が上がり、集合写真を撮った。


私もわずか数本の演劇を観ているが、この一日限りの市外劇が、今まで体験した演劇の中で忘れられないのには、もうひとつ理由がある。


その次の日に、友人たちとご飯を食べていたら、ひとりの友人の携帯が鳴った。それは、保育園から高校まで同じだった、同級生の自殺の知らせだったのだ。そして、私は東京に戻る日を遅らせることになった。


 まだ芝居は続いているの?、と思った。


寺山修司が率いた「演劇実験室天井桟敷」のこの芝居の初演は、東京・新宿及び高田馬場での一九七○年の十一月だったという。私が、産まれた頃である。


 そんな寺山の「寺山修司演劇祭」が、近々、青森県三沢市で開催される。


 期間は、九月二十二日(日)~二十三日(月・祝)、入場無料。この機会に、テラヤマワールドをお勧めしたい。

手紙魔だった彼だったら、きっとSNSを活用していただろうなと思う。

(harappaメンバーズ=KIRIKO)



2013年9月10日火曜日

【harappa Tsu-shin】横尾忠則の「昭和NIPPON」

みなさんこんにちは。
あんなに暑かった夏ですが、朝晩は肌寒いですよね。
特に夕方のひんやりとした空気はもうすっかり秋の気配です。
そんな秋といえば、やっぱり芸術の秋ですよね!

先週6日、青森県立美術館で新しく始まる
横尾忠則の「昭和NIPPON」-反復連鎖転移の
レセプションに行ってまいりました!

ポスターや装丁、グラフィックワークで有名な
現代日本を代表する美術家 横尾忠則ですが、
御歳なんと77歳!
レセプションで拝見した横尾忠則は歳なんて感じさせない
不思議なエネルギーに満ち溢れていました。

今回の展覧会では、グラフィックワークにとどまらない絵画などの作品も多く、
横尾忠則の才能を多方面から感じることができます。
また、「昭和」という時代と重ね合わせることで
作品の意味を捉え直していくという内容になっています。

最近は美術館自体を見に行くことが多く、
展覧会の内容でこんなにも夢中になって見たのはとっても久しぶりな気がします。

もう、とにかく、圧倒的にすごいのです!
知識がないので「すごい」としか言いようがないのですが、
「反復連鎖転移」のテーマの通り、見終わっても
また最初から見直したくなるおもしろさでした。

寺山修司とも親交が深かった横尾忠則が、
震災、原発の問題が入り乱れる平成の時代に、
青森で展覧会を開くのもまた「反復連鎖転移」を感じずにはいられません。

みんさんぜひ、芸術の秋に横尾忠則展に足を運んでみてください。

会期:2013年9月7日(土)-201年11月4日(月・祝)
休館日:9月24日(火)、10月15日(火)
開館時間:9:00-18:00(10月1日からは9:30-17:00)※入館は閉館の30分前まで
観覧料:一般1,000円、高大生600円、小中生200円


(harappaスタッフ=太田)

【越境するサル】特別号「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (中)」(2013.9.1発行)

「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」、2回目の配信は4と5。「<過渡期>の映画たち」と題した、1979年の映画についての叙述である。(1)で外国映画を、(2)で日本映画を扱ったが、「70年代映画史」につながる内容も目指した。


   「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (中)」

4 <過渡期>の映画たち(1)  (2007.12.3発行『越境するサル』№62)
   2007年8月から、1979年公開の映画のビデオやDVDや資料を探し出し、観る(読む)という作業を続けた。もちろんそれは「1979年の映画」のほ んのごく一部に過ぎないものだが、この作業を通じて私なりの「1979年の映画」像が少しではあるが見えてきた。当初考えていた以上に、その存在感は大き かった。むろん、私にとって。

   言うまでもないことだが、私はここで「1979年の映画」についての通史的な記述や概説を書こうとしているのではない。したがって<過渡期>というのは、 (映画を観る)私にとっての<過渡期>の映画たち、という以上の意味ではない。実際、その映画たちの中には、その後の私にとって大きな意味を持ってしまっ た作品がいくつかあったのだ。

   まず、この年に公開された作品のラインナップを見てみよう。
   2004年刊行が始まった『週刊 20世紀シネマ館』(講談社)の№48は1979年
日本公開作品を扱った号だが、そこで紹介されている主要な作品(洋画)は
『ディア・ハンター』 (1978年アメリカ、マイケル・チミノ監督)・
『チャイナ・シンドローム』(1979年アメリカ、ジェームズ・ブリッジス監督)・
『旅芸人の記録』 (1975年ギリシア、テオ・アンゲロプロス監督)・
『ビッグ・ウェンズデー』(1978年アメリカ、ジョン・ミリアス監督)・
『イノセント』(1975 年イタリア・フランス、ルキノ・ヴィスコンティ監督)・
『天国から来たチャンピオン』(1978年アメリカ、ウォーレン・ビーティ&バック・ヘンリー監 督)の6本である。
   その他に「名画グラフィティ」として
『エイリアン』(1979年アメリカ、リドリー・スコット監督)・
『スーパーマン』(1978年アメリカ、リチャー ド・ドナー監督)・
『チャンプ』(1979年アメリカ、フランコ・ゼフィレッリ監督)・
『木靴の樹』(1978年イタリア、エルマンノ・オルミ監督)・ 
『エーゲ海に捧ぐ』(1979年イタリア・日本、池田満寿夫監督)・
『リトル・ロマンス』(1979年アメリカ、ジョージ・ロイ・ヒル監督)・
『女の叫 び』(1978年ギリシア、ジュールス・ダッシン監督)・
『奇跡』(1955年デンマーク、カール・ドライエル監督)・
『インテリア』(1978年アメリ カ、ウディ・アレン監督)・
『プロビデンス』(1977年フランス、アラン・レネ監督)
の10本が小さく紹介されている。
   なお、「この年の日本映画」として『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)に1ページを割いているが、日本映画(邦画)の内容紹介はこのコーナーだけである。
   また、資料としてこの年の洋画・邦画それぞれの「キネマ旬報(以下『キネ旬』)ベストテン」も記載されているので、以下列挙する。
   <洋画> 
①『旅芸人の記録』 
②『木靴の樹』 
③『ディア・ハンター』 
④『イノセント』
⑤『インテリア』
⑥『女の叫び』 
⑦『奇跡』 
⑧『ビッグ・ウェンズデー』 
⑨『チャイナ・シンドローム』 
⑩『プロビデンス』
   <邦画> 
①『復讐するは我にあり』
②『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督) 
③『Keiko』(クロード・ガニオン監督) 
④『赫い髪の女』(神代辰 巳監督)
⑤『衝動殺人・息子よ』(木下恵介監督) 
⑥『月山』(村野鐵太郎監督)
⑦『十九歳の地図』(柳町光男監督)
⑧『もう頬づえはつかない』 (東陽一監督)
⑨『あゝ野麦峠』(山本薩夫監督)
⑩『その後の仁義なき戦い』(工藤栄一監督)
   これで、「1979年の映画」地図をいくらかイメージできるだろうか。

   実は、「1979年の映画」について、私は特別な思い入れを持っている。この年の出来事や社会情勢や文学作品の記憶に比べ、ここまで列挙してきた作品群(というよりその題名)についての記憶はかなり強く私に刻印されているのだ。それにはちょっとした理由がある。
   いま私の手元に、大事にとっておいた1冊の雑誌がある。「裏目読み」の小川徹が編集長をつとめていた隔月刊誌『映画芸術』(以下『映芸』)№332。 1980年2月発行のこの号の特集は、「’79年私が選び私が拒んだ映画」で、「辛口」の映画人や批評家たちの投票によって邦画・洋画のベスト10・ワー スト10を選考する名物企画の79年版である。
   映画館から遠く離れた町で社会人生活をスタートさせた私にとって、学生時代から親しんできた『映芸』の「ベストテン」は貴重な情報だった。観るあてもない 映画たちの題名と批評をくり返しくり返し眺めては、私はため息をつき題名を頭に刻み込んだ。これらのうち何本かとは、その後幸福な出会いを果たすことにな る。
   他の「ベストテン」とは違った作品を選ぶといわれる『映芸』の「ベストテン」も、この年は『キネ旬』とかなり似通っている。これも列挙してみる。
   <洋画> 
①『木靴の樹』 
②『旅芸人の記録』 
③『暗殺のオペラ』(1969年、ベルナルド・ベルトリッチ監督) 
④『ディア・ハンター』 
⑤『リト ル・ロマンス』 
⑥『イノセント』 
⑦『ウォリアーズ』(1979年、ウォルター・ヒル監督) 
⑧『ウェディング』(1978年、ロバート・アルトマン監 督) 
⑨『ビッグ・ウェンズディ』 
⑩『ファール・プレイ』(コリン・ヒギンズ監督)
   <邦画> 
①『十九歳の地図』 
②『赫い髪の女』 
③『太陽を盗んだ男』
④『天使のはらわた・赤い教室』(曾根中生監督) 
⑤『その後の仁義なき戦い』 
⑥『Keiko』 
⑦『復讐するは我にあり』 
⑧『もっとしなやかに もっとしたたかに』(藤田敏八監督) 
⑨『処刑遊戯』(村川透監督) 
⑩『天使の欲望』(関本郁夫監督) 
( ⑪『十八歳、海へ』(藤田敏八監督) )
   さて、これでラインナップは出そろった。

   この中で、その後の私にとって最も大切な存在となったのが『旅芸人の記録』である。この映画との出会いについては、過去に何度か書く機会があった。そのひとつを、次にそのまま紹介する。

  …1952年、ペロポネソス半島の港町エギオンの駅前広場に立つ旅芸人の一座。そのシーンにかぶさるナレーション。「52年の秋、私たちはまたエギオンにきた。昔いた者は少なかった。新しい顔がふえていた。私たちは疲れ果てていた。二日間眠っていなかった」
   『旅芸人の記録』は、1979年の8月から10月にかけて東京神田神保町「岩波ホール」で上映された。猛暑の中、長蛇の列ができたという。この232分の 大作はその後少しずつ全国で上映されるが、私は1980年11月に函館市でおこなわれた市民団体の鑑賞会で出会った。当時私は、津軽海峡を隔てた本州最北 端の町に勤務していた。函館とはフェリーボートで2時間ほどの距離であった。この出会いの後、テオ・アンゲロプロスの作品は私にとって特別な意味を持つも のとなった。まず『旅芸人の記録』の世界そのものに没入した。この映画は1952年を出発点として、1939年の同じエギオンの路上に戻る。そこから第二 次大戦、ナチス・ドイツのギリシャ全土占領、ゲリラ活動、ナチスの撤退、国民統一政府の成立、内戦、そして1952年の右翼独裁政権の成立にいたるギリ シャ現代史と一座の物語(一座の座主の名はアガメムノン、妻はクリュタイムネストラ、長女はエレクトラ、その弟はオレステス・・・ギリシャ神話の枠組みを 借りた裏切りと復讐の物語)が絡み合った壮大な叙事詩が展開されていく。その背景を調べ、映画の資料や批評を集め、もう一度出会うことを待ち望む日々。 レーザーディスクやビデオテープという形で作品を所有するまで、この熱病のような「ブーム」は続いた…(※注)

   『木靴の樹』と出会ったのも、函館市の同じ市民団体の鑑賞会である。ネオ・リアリズムの正統な継承者とも言われるエルマンノ・オルミ監督のこの大作 (187分)は、19世紀末の北イタリア農村の世界を「再現」したカンヌ映画祭グランプリ受賞作である。『旅芸人の記録』・『木靴の樹』と続けて出会った ことにより、私の中の「映画」という概念が揺さぶられたことは確かだ。これが「映画」ならば今まで観てきた「映画」は何なのだろう…極端に言えばそのよう な衝撃を受けたのだ。当時私は、その衝撃は徹底したリアリズムに対するものだと理解していた。それがどのような「リアリズム」なのか、まだ私はうまく説明 できないでいるが。
   『木靴の樹』もまた、最初「岩波ホール」(つまり「エキプ・ド・シネマ」)で上映された(79年4月~6月)作品である。さらにこの年の「ラインナップ」 としてあげた作品のうち、『奇跡』(79年2月~3月)、『プロビデンス』(79年6月~8月)、『月山』(79年10月~12月)『女の叫び』(79年 12月~80年2月)が「岩波ホール」上映作であり、1974年にスタートした日本のミニシアター運動の原点「エキプ・ド・シネマ」の力の大きさを感じさ せる。そして、そのうちの2本『旅芸人の記録』・『木靴の樹』が地方にまで進出し、私はそれに遭遇した。
  
   ところで、「エキプ・ド・シネマ」によって日本に紹介された映画たちは主にヨーロッパ映画である。それに対し、私(たち)が「今まで観てきた『映画』(洋画)」は圧倒的にアメリカ映画であった。
   私(たち)は、イタリアのネオ・リアリズムもフランスのヌーヴェル・ヴァーグも同時代としては経験していない。「名作」や「古典」として鑑賞することは あっても、ヨーロッパ映画の公開自体が話題になるという経験をしていない。私(たち)がリアルタイムで観た洋画とはアメリカ映画、それも「アメリカン・ ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群であった。
   「(アメリカン)ニュー・シネマ」は『俺たちに明日はない』(1967年、アーサー・ペン監督)から始まるとされる。1980年に出版された『70年代ア メリカン・シネマ103~もっともエキサイティングだった13年~』(ブック・シネマテーク1、フィルムアート社)の「解説」(筈見有弘)には次のように 書かれている。
   「1967年12月8日号の『タイム』誌が『俺たちに明日はない』を特集し、その見出しにニュー・シネマという言葉を使ったときが、ジャーナリスティック な意味でのニュー・シネマの登場であり、風俗的には1969年の『イージー・ライダー』、質的には翌年の『ファイブ・イージー・ピーセス』で頂点をむかえ たとするのが一般的なニューシネマのとらえ方である。」
   「ニュー・シネマ」は特定のジャンルの作品を示す用語ではない。私が映画館まで足を運んで観た映画のほとんどは、いま思えば「ニュー・シネマ」だったとい える。1967年、私は小学6年生、1968年、中学入学、1971年、高校入学、1974年、大学入学・・・『猿の惑星』(1968年、フランクリン・ J・シャフナー監督)、『真夜中のカーボーイ』(1969年、ジョン・シュレシンジャー監督)、『明日に向かって撃て』(1969年、ジョージ・ロイ・ヒ ル監督)、『M★A★S★H・マッシュ』(1970年、ロバート・アルトマン監督)、『ある愛の詩』(1970年、アーサー・ヒラー監督)、『アメリカ ン・グラフィティ』(1973年、ジョージ・ルーカス監督)、『追憶』(1973年、シドニー・ポラック監督)、『スティング』(1973年、ジョージ・ ロイ・ヒル監督)、『アリスの恋』(1975年、マーティン・スコセッシ監督)、『カッコーの巣の上で』(1975年、ミロス・フォアマン監督)、『タク シー・ドライバー』(1976年、マーティン・スコセッシ監督)、必ずしもリアルタイムで観たものばかりではないが、記憶に残っている洋画たちを羅列して みると、そのまま「アメリカン・ニュー・シネマ」の系譜となる。
   1970年代末のアメリカ映画たちはその最後の輝きである、とするのはあまりに安易な図式だろうか…
  
   再び、1979年日本公開の映画に戻る。4本のアメリカ映画、『ディア・ハンター』・『天国から来たチャンピオン』・『インテリア』・『チャイナ・シンドローム』について取り上げてみたい。

   『ディア・ハンター』は「ヴェトナムもの」である。しかし「反戦」のメッセージをかかげた映画ではない。また、もちろん「戦争賛美」の映画でもない。マイ ケル・チミノ監督の言葉を借りれば、「ごく平凡に生きてきた若者たちが戦争という危機にどう対処したか」を描いた映画である。
   舞台は、スラブ系移民の鉄鋼町ペンシルバニア州クレアトン。この町の鉄鋼所に勤める仲間の若者5人のうち、マイケル、ニック、スティーヴンの3人が徴兵で ヴェトナムに行くことが決まっている。彼ら3人の歓送会も兼ねたスティーヴンの結婚式のシーンが序盤の山場だ。ロシア正教会での賑やかな式典、民族舞踊・ 音楽、若者たちの愚行、そしてヴェトナム出発前最後の「鹿狩り」。マイケル(ロバート・デ・ニーロ)は一発で獲物をしとめた。
   すさまじい戦火のヴェトナム。敵の捕虜となった3人は「死のゲーム」、ロシアンルーレットの拷問を受ける。極限状況の中で、なおも助け合おうとする3人。やっと脱出に成功した3人だが、もう彼らは昔の彼らではなかった…
   スラブ人共同体、戦争の現実、戦争後の復員兵の心理、これらが3時間にわたって丹念に描かれたこの作品は、78年アカデミー作品賞・監督賞他を受賞。北 ヴェトナムによる「ロシアンルーレット」の拷問シーンに対する抗議の声(授賞阻止行動へとつながっていく)も多かった問題作である。
   この後マイケル・チミノ監督は1980年、西部開拓史上に起こった東欧系移民大虐殺事件をもとにした『天国の門』を巨額の制作費を投じて完成させるが、全 くヒットせず、制作会社は倒産、彼はハリウッドを一時追放される。ようやく復活したのは、1985年、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』によってである。
  
   ウォーレン・ビーティ&バック・ヘンリー監督(ビーティは製作・脚本・主演も)の『天国から来たチャンピオン』は「ファンタジー」としか呼びようのない映 画である。事故で死にかけたフットボール選手が、天国の手違いにより肉体を火葬されてしまい、別の肉体(最初は富豪、次にフットボールの元同僚)を借りて 活躍し、恋愛する…戦前の映画のリメイク版だが大ヒット作となった。
   ビーティ(現在はベイティと表記される)は、『俺たちに明日はない』の製作・出演により「ニュー・シネマ」を誕生させた映画人であるが、この後1981 年、ロシア革命のルポルタージュ『世界をゆるがした十日間』の著者ジョン・リードの生涯を描いた大作『レッズ』(監督・製作・脚本・主演すべて ビーティ)でアカデミー監督賞を受賞する。

   ウディ・アレン監督『インテリア』は、冷たく静かなタッチで家族の崩壊(そしておそらくは恢復)を描いた作品だが、登場人物それぞれの「内面」の激しさは その落ち着いた画面からも伝わってくる。インゲマール・ベルイマンに傾倒していたウディ・アレンが、尊敬するスウェーデンの巨匠に捧げた映画であり、この ような作品も作れるということを示した一作である。  
   ウディ・アレンはこの前作『アニー・ホール』(1977年)において、それまでのドタバタ調・ナンセンス・ジョークの洪水の作風から、神経過敏で饒舌でい つも愛に飢えている主人公のキャラクターを継承しながらもよりシリアスな作風へと方向転換をとげた、とされる。ニューヨークに住むユダヤ系アメリカ人(ウ ディ・アレン自身の投影であり演ずるのも彼)の愛の顛末を描いた『アニー・ホール』は高い評価を受け、アカデミー監督賞・脚本賞を受賞(なお主演女優賞が 共演のダイアン・キートン)した。 さらに次作『マンハッタン』(1979年)においても、再びニューヨークを舞台に愛と仕事に生きる(その生き方は自己に忠実でかつ不器用だ)主人公に自ら 扮し高い評価を受けている。

   マイケル・ダグラス製作(ジェームズ・ブリッジス監督)の『チャイナ・シンドローム』は、原子力発電所事故の恐怖を描いた映画である。この映画では大事故 は回避されるのであるが、1979年3月16日アメリカ公開の12日後、3月28日にペンシルヴェニア州スリーマイル島の原発で炉心の一部が溶解するとい う事故が発生し、原発事故を「予言」した映画として反響を呼んだ。
   チャイナ・シンドロームとは、アメリカの原発に事故が起こり原子炉底部を溶かしてしまうと理論的には溶融物が地球の裏側の中国にまで達する、という意味で あるが、半ばサスペンスであるこの映画からその恐怖は伝わってくる。だが、現在の時点でこの映画を観ると(高校の授業で生徒たちと一緒に鑑賞したのだ が)、組織の中で人はどのように生きられるのかというテーマの方が浮かび上がってくる。原発を取材するテレビ局キャスターのキンバリー(ジェーン・フォン ダ)、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)、内部告発に踏み切る原子力発電所制御室長ゴデル(ジャック・レモン)、彼らは皆、結果として組織に 抗して闘ってしまった人間たちだ…
  
   さて、実は私はこの4本をつい最近まで観ていなかった。それぞれの作品に対して長い間、観なければという思いを抱いていたにもかかわらず。
   「壮大な失敗作(興行的に)」であるからこそ逆に入れ込んだマイケル・チミノ『天国の門』(1980年)に先立つ作品としての『ディア・ハンター』、何度 もくり返し観たお気に入り作『レッズ』(1981年)に先立つ作品としての『天国から来たチャンピオン』、しゃれた傑作と感じたウディ・アレン『カイロの 紫のバラ』(1985年)に先立つ作品としての『インテリア』(さらに『アニー・ホール』と『マンハッタン』)、そして反原発運動のルーツとしての『チャ イナ・シンドローム』。今回、70年代アメリカ映画(それをそのまま「ニュー・シネマ」と呼んでいいかは依然不確かだが)の最後を飾る作品群としてこれら の作品にふれてみたが、もっと早く出会うべきだったという思いを強くした。それは、一部の映画を除いてアメリカ映画に興味を示さなかった自分への、後悔の 念なのかもしれない。

   続く1980年代、私はヨーロッパ映画に急速に傾斜していく。数少ない映画館での鑑賞機会も当然ヨーロッパ映画に充てられ、やがてその他の地域(とりわけ中国)の映画に目を開かれていく。それはちょうど「ミニシアター」が市民権を得ていく過程と符合するはずだ。

(※注)
   『越境するサル』№34「テオ・アンゲロプロス、長い旅」(2005年10月30日発行)より。                           

5 <過渡期>の映画たち(2)  (2008.3.4発行『越境するサル』№66)

    「<過渡期>の映画たち(1)」で、1979年公開の主に外国映画についての記述を試みた。その年の日本映画もまた、後になってその重要さを認識した作 品も含めて、私にとって大きな意味を持っていた。いま、その作品群を見て改めてそう思う。(なお、文中『キネ旬』は『キネマ旬報』ベストテンの順位、『映 芸』は『映画芸術』ベストテンの順位。)

   1979年(昭和54年)を代表する日本映画として、必ず取り上げられるのが今村昌平監督の『復讐するは我にあり』である。1963年に起きた殺人事件を 追った佐木隆三のノンフィクションを映画化したものだが、詐欺と殺人を続ける主人公(緒形拳)の不可解な心理を丹念に探求した傑作として高い評価を得てい る。何よりも緒形を始め出演した俳優たち(三國連太郎・倍賞美津子・小川真由美・清川虹子・ミヤコ蝶々他)の演技が素晴らしく、この年の『キネ旬』第1位 を獲得した(『映芸』第7位)。
   緒形扮する主人公榎津巌は、カトリック信者で漁師の親方である父(三國連太郎、のち一家で温泉旅館経営)に対する反発から非行化し、少年院と刑務所に出た り入ったりの生活を送る。戦後結婚するが、詐欺の常習犯として刑務所に出入りし、その間父と妻(倍賞美津子)の関係を疑いますます父に対する反発を強めて いく。やがて彼は強盗殺人犯となり、詐欺と殺人をくり返しながら逃亡の旅を続けるが、その時潜伏していた宿屋の女主人(小川真由美)とその母親(清川虹 子)との日々が映画の中でかなりの比重を占める。彼女らと榎津の、そして妻・父と母(ミヤコ蝶々)の微妙な心理の描写と、彼の大胆な詐欺と殺人の描写が重 く心に残る作品である。
   川島雄三の助監督を経て1958年監督デビューした今村は、『豚と軍艦』(1960年)・『にっぽん昆虫記』(1963年)などで名匠としての評価を確立 するが、1968年の『神々の深き欲望』以来11年間長編劇映画を発表していなかった。この久々の監督作品以降10年間で今村は、『ええじゃないか』 (1981年)・『楢山節考』(1983年)・『女衒 ZEGEN』(1987年)・『黒い雨』(1989年)とカンヌ映画祭出品作を含む話題作を発表し続ける。
   私がリアルタイムで体験したのは『ええじゃないか』・『楢山節考』の2本だけである。だが、川島雄三から今村という流れを追いながら(今村は何本かの川 島作品の共同脚本に名を連ねている)、今村昌平の存在が私の中で日に日に大きくなっていくのを感じる。日本映画学校(1985年創立。前身の横浜放送映画 専門学院は1975年創立。1979年はその間の時期にあたる。)の創立者・校長として、その後の映画・テレビ界に多くの人材を送り出したことと合わせ て、私がこれから日本映画について考えていく際の重要な軸となっていくことだろう。

   『太陽を盗んだ男』(キティ・フィルム、東宝配給、1979年『キネ旬』第2位、『映芸』第3位)の長谷川和彦監督は、今村昌平の弟子にあたる。1968 年、今村の『神々の深き欲望』の制作スタッフ公募で今村プロに入社。その後1971年、日活契約助監督となり、藤田敏八・神代辰巳・西村昭五郎らの作品に つきながらシナリオを書き、1976年、『青春の殺人者』(今村昌平プロデュース、ATG製作・配給)で監督デビューを果たした。『青春の殺人者』は、 1969年千葉県で実際に起きた事件をもとに書かれた、中上健次の短編小説『蛇淫』を原作としたものである。なりゆきから両親を殺してしまった青年(水谷 豊)とその恋人(原田美枝子)の姿を醒めた眼で描いたこの作品は、1976年の『キネ旬』第1位を始め、多くの賞を独占した。
   『太陽を盗んだ男』は掛け値なしで楽しめるアクション映画、エンターテインメント作品である。沢田研二演ずる中学理科教師がアパートで原爆を製造し、国家 を相手にナイター巨人戦の放送延長やローリング・ストーンズの日本公演許可を要求する。この奇想天外なアイデアと国会議事堂前や皇居前でのロケ、沢田と彼 を追いかける警部役の菅原文太の対決等、見所満載で、私にとって最も楽しめた日本映画のひとつであり、映画人による評価も高い。しかし、興行成績はなぜか ふるわなかった。
   その後現在に至るまで、彼の映画監督作品はない。3作目として、連合赤軍を題材にした映画が構想されていたが、中断されたままだ。なお、1982年、自ら と大森一樹、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎、池田敏春、井筒和幸、黒沢清、石井聰互、計9人の若手監督による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパ ニー」を設立し、代表取締役・プロデューサーとして活躍した。
  
   70年代を代表する映画監督藤田敏八はこの年、『もっとしなやかに もっとしたたかに』(『キネ旬』第11位、『映芸』第8位)・『十八歳、海へ』(『キネ旬』第18位、『映芸』第11位)・『天使を誘惑』の3本を監督作品として発表する。
   1967年、『非行少年 陽の出の叫び』で日活から監督デビューした藤田は、「非行少年」シリーズ・「野良猫ロック」シリーズに続いて、1971年、『八月の濡れた砂』を発表。藤 田の代表作であるこの作品は、ロマンポルノに移行する日活旧体制の最後の作品となった。その後、ロマンポルノ作品『エロスは甘き香り』(1973年)、桃 井かおり・原田芳雄主演の『赤い鳥逃げた?』(1973年)、秋吉久美子主演3部作『赤ちょうちん』・『妹』・『バージンブルース』(3本とも1974 年)を経て、前年1978年には『危険な関係』、永島敏行主演の『帰らざる日々』を発表していた。
   『もっとしなやかに もっとしたたかに』は、奥田瑛二と森下愛子を主役にすえ、高沢順子・風間杜夫・加藤嘉らで脇を固めたロマンポルノ作品である。奥田が演ずる主人公は妻(高 沢)に家出され、息子を姉に預けて妻の行方を捜しているが、ロックバンドのグルーピー同士のいざこざで危機に陥っていた少女(森下)を助け、やがて奇妙な 同棲生活に入る…「家族の崩壊」をめぐる佳作であり、役者たちの存在感も充分に感じられる作品である。
   『十八歳、海へ』は、予備校で知り合ったふたりの若者(永島敏行と森下愛子)の「心中ごっこ」の顛末と、その上の世代(小林薫と島村佳江)の出会いのドラ マ、このふたつを並行させ進行する作品である(こちらは一般作)。出口のない状況を描きながら、わずかに希望がほの見える。原作は中上健次。
   2本ともある種の感情移入が可能な青春(およびその続きの)ドラマだが、今回DVDでじっくり鑑賞してみて、それまでの藤田敏八作品のようなギラギラした 切迫感のようなものが薄くなっているように感じた(とりわけ『十八歳、海へ』)。これ以後の藤田作品はどのように変容していったのだろうか…

   さて、1979年の日本映画で、私がほぼリアルタイムで観ることができたのは次の5本である(地方の、しかも映画館のない町で暮らしていた私の場合、「ほぼリアルタイム」はかなりの幅を持つことを許してほしい)。
   前述の『太陽を盗んだ男』、『赫い髪の女』(神代辰巳監督、『キネ旬』第4位、『映芸』第2位)、『十九歳の地図』(柳町光男監督、『キネ旬』第7位、 『映芸』第1位)、『Keiko』(クロード・ガニオン監督、『キネ旬』第3位、『映芸』第6位)、『もう頬づえはつかない』(東陽一監督、『キネ旬』第 8位)。  
   『赫い髪の女』は、70年代日活ロマンポルノのエース的存在であり、『青春の蹉跌』(1974年)や『アフリカの光』(1975年)などの一般映画でも評 価の高かった神代監督が、中上健次の小説『赫髪』を映画化したもの(脚本は荒井晴彦)。ダンプカー運転手の主人公(石橋蓮司)と道で拾った女(宮下順子) の、閉塞した街(と人間関係)の中での生活が描かれる。
   『十九歳の地図』は、当時日本最大の暴走族であったブラックエンペラーを追ったドキュメンタリー『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』(1976年)で評判を呼んだ、柳町監督の第2作である。原作は中上健次の同名小説。主人公は、地方から上京し新聞配達をしながら予備校 に通っている19歳の青年(本間優二)。彼の孤独と哀しみ(それは、配達区域の家庭や周囲の人間たちへの怒りや憎しみという形で表される)が伝わってくる 秀作だった。蟹江敬三・沖山秀子・山谷初男といった個性派が脇を固めている。
   『Keiko』は、京都在住のカナダ人クロード・ガ二オンが監督・脚本をつとめた不思議な作品である。女子大を卒業し、社会人としての生活を送るケイコの 日常・恋愛・結婚か淡々と描かれていくが、ほとんど素人を使ったようなその映像は劇映画というよりドキュメンタリーであり、妙に生々しい印象を観客に与え る。
   『もう頬づえはつかない』は、見延典子の同名小説を映画化したATG作品。桃井かおり演ずる主人公の大学生が、自分勝手なふたりの男との関係に決着をつ け、ひとりで生きていこうと決意する内容である。ふたりの男を演ずるのは奥田瑛二と森本レオで、映画は明らかに世代論としてこのふたりを描いている(森本 が全共闘世代)。『やさしいにっぽん人』(1971年)でドキュメンタリーから劇映画に進出した東監督は、1978年、永島敏行と森下愛子を主役に抜擢し たATG作品『サード』(軒上泊原作、寺山修司脚色)で映画賞を独占していた。この後80年代、数々の女性映画を手がける。

   まだまだ、書かれなければならないことがある。
   この年、村川透監督の『処刑遊戯』(『キネ旬』第34位、『映芸』第9位)が公開される。松田優作を起用したアクション『最も危険な遊戯』から始まる「遊戯」シリーズの作品である。
   日活ロマンポルノ作品『天使のはらわた 赤い教室』(曾根中生監督、『キネ旬』第13位、『映芸』第4位)が公開されたのもこの年だ。『天使のはらわた』は、圧倒的な人気を誇っていた石井隆の劇 画を映画化したものであり、この劇画シリーズの主役の名は男は村木、女は名美で統一されている。それぞれが全く別の物語でありながら同じ名を持つ登場人物 たち、複数の村木と名美の物語。この映画化以降、映画の方もシリーズ化され、やがて原作者石井隆自身が監督として登場する。
   そして忘れてはならないのが、宮崎駿監督の長編アニメ第1作『ルパン三世 カリオストロの城』が公開されたことである。のちに高く評価されたこの作品も、1979年時点ではまだ正当に評価されていない(興行的にも数字を残してい ない)。宮崎監督がカリスマ的な人気と名声を手に入れるのは、もっと先、『風の谷のナウシカ』(1984年)からである…

   ここまで私は1979年の映画について語ってきたが、実は1970年代の映画全体に対する自らの憧憬を確かめているのではないか、そういう気がしてきた。 出会ったもの、出会いそこなったもの、どちらに対しても私が抱いているある種の感傷、その核(コア)に向かっていくための切り口としてのみ「1979年」 は設定されたかのようだ。
   語ることによって、書くことによって、少しずつ鮮明になってゆくものがある。70年代、自分の興味の対象が何だったのか、何を求めて私は映画を観ていたのか、さらに、いま、70年代の映画に私は何を視ようとしているのか。
   今回、最初から意識的にその系譜をたどろうとしたのは、川島雄三から今村昌平そして長谷川和彦という流れ(さらに長谷川の助監督が相米慎二なのだが)である。だが、そういう現在の関心とはもちろん無関係に、「私の70年代映画」はあった。  
   「私の70年代映画」と言った時、第一にあげなければならないのはATG映画の存在だろう。あるいはATG映画への憧れと言ってもいい。いくつかの幸運 がなければ作品との出会い自体がありえないという事情(もちろん地方の映画館事情のことだ)にもかかわらず、何本かのATG映画と遭遇し、そのうちのいく つかはビデオでくり返しくり返し観た。たとえば『祭りの準備』(1975年、黒木和雄監督)・『青春の殺人者』(1976年、長谷川和彦監督)・『サー ド』(1978年、東陽一監督)・『曽根崎心中』(1978年、増村保造監督)などである。
   ATG(日本アートシアターギルド)は、1962年、芸術映画専門の上映チェーンとして発足し、地味な(芸術的な)外国映画作品を主に上映していたが、大 手の配給網にのりそうもない日本映画の上映も行っていた。このATGが1967年、1千万円という予算(ATGと製作プロダクションが折半)をたてATG での上映を予定しての映画作りを始めた。この方式の最初の作品が『人間蒸発』(1967年、今村昌平監督)であり、この方式によってつくられた作品を 「ATG映画」と呼ぶ。
   私が出会ったATG映画は、初期の実験的な作品群とは異なり、ある意味オーソドックスな秀作たちである。その時には出会えなかった実験的な作品たちとは、その後少しずつ(現在に至るまで)出会い続けている。
   さらに、魅力的な俳優たちの存在も「私の70年代映画」を彩る。萩原健一、原田芳雄、江藤潤、永島敏行、奥田瑛二、桃井かおり、秋吉久美子、原田美枝子、森下愛子、緑魔子…
   最後に付け加えれば、原作者としての中上健次の影も「私の70年代映画」において特徴的なことだ。ここまでの記述で登場してきた中上健次原作の映画化作品 は、『青春の殺人者』・『赫い髪の女』・『十八歳、海へ』・『十九歳の地図』の4本。私が本気で中上健次を読もうとしたのは1979年から10年以上も後 のことだが、原作者としての中上はずっと前から刷り込まれていたわけである。

   こうして私は、80年代映画に向かう入口にたどり着こうとしているが、一方で70年代(さらには60年代・50年代)へ遡ろうとしている自分にも気がつい た。<過渡期>と題したのは単なる思いつき以上のものではなかった(そもそも、私にとっての過渡期という意味であった)が、設定してみれば、あながち的外 れでもない…
                                       
<後記>
  次回は「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」3回目の配信。「6 大江健三郎の70年代」、「7 土本、中野重治の葬儀を撮る」、「8 とりあえずの『まとめ』として」の3編。これで今回の特別号は最後となる。


harappaメンバーズ=成田清文)
※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田清文さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。