8月19日、青森県高等学校教育研究会地理歴史科公民科部会総合研究大会日本史分科会で、「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」と題した発表を行った。『越境するサル』で過去に配信したものをまとめたものだ。「日本史分科会」の発表としては異色の内容だったが、何とか趣旨を理解してもらえたように思う。
今回このような形で「1979年へ」シリーズをまとめることができたので、特別号としてこれから3回に分けて配信したい。まず、1から3まで。
「
1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (上)」
1 浅川マキと兵頭正俊がいる風景 (2007.5.18発行『越境するサル』№56)
これからしばらくの間、「1979年へ」と題して、1979年とその前後に出会ったものについての記憶を確認したいと思う。その際手元においてチェックする「クロニクル」として、『昭和 二万日の全記録 第16巻 昭和51-54年』(講談社、1990年)と『20世紀の記憶 第14巻 1976-1988』(毎日新聞社、2001年)の2冊を用意した。
1979年を迎えた時、私が視ていたのはどのような風景だったのだろうか。私を包んでいたのはどのような空気だったのだろうか。
いま私は、出版された何冊かの「クロニクル」に記されている出来事の羅列を追いかけながら、そこに記述されていないものについて思いを巡らす。それは、その頃私が聞いていた音楽や読んでいた本の記憶であり、個人的な事情であり、私を取り巻く小宇宙の状況である。
私は大学に在籍する最後の日々を送っていた。自分がいままでいた場所を去ることは確実だが、行く先はまだ決まっていない。転機が近づいていると予感しつつも現実は依然として宙ぶらりんのまま。この頃私の心を捉えていたのは、浅川マキのいくつかの曲と、兵頭正俊のいくつかの小説であった。
1968年、寺山修司に見出された浅川マキは、1970年、ファーストアルバム『浅川マキの世界』を発表する。1969年シングル発売の「夜が明けたら」と「かもめ」を含むこのアルバムは、「寺山修司の世界」と名づけてもいい「アングラ演劇」的雰囲気を濃厚に持つものだったが、翌1971年の『浅川マキ Ⅱ』あたりから彼女は少しずつ寺山的世界を離れ、自らの世界を形成していく。以後『MAKI LIVE(71年紀伊國屋ホール年越しライヴ)』(1972年)・『Blue Spirit Blues』(1972年)・『裏窓』(1973年)・『MAKI Ⅵ』(1974年)・『灯ともし頃』(1976年)・『流れを渡る』(1977年)・『浅川マキ・ライヴ・夜(京大西部講堂ライヴ)』(1978年)・『寂しい日々』(1978年)と続くラインナップ(そのピークは『灯ともし頃』ではないか、と私は思うのだが)は、彼女が70年代いっぱいをかけて「浅川マキ的世界」を作り上げていったプロセスを示している。
ジャズであり、フォークであり、ブルースであり、しかしそのどれでもない「浅川マキの歌(唄)」としか名づけようのない世界を、私もまたひとりのファンとして体験していた。例によって、人から少し遅れて。
1979年の私は、引き続き彼女の音楽に浸っていた。4月から社会人として新しい町で暮らすことになるのだが、その前も後もいつも浅川マキのカセットテープをかけ、口ずさんでいたように記憶している。
たとえば「少年」の「夕暮れの風がほほをなでる いつもの店に行くのさ~」という歌詞や「にぎわい」の「ほんの少しばかり 遠出したくなった~」という歌詞に自分を投影させ、「それはスポットライトではない」をくり返しかけては自分を励まし、「夕凪のとき」のアンニュイなメロディに心を任せた。
「あなたなしで」や「オールド・レインコート」や「ガソリン・アレイ」はほとんど自分のテーマソングのように口ずさんだ。「川を下って行くあの船のように ゆらゆら揺れながら流れて行こう~」(「あなたなしで」)、「おまえは かつて 荒れ狂う川の激流に 身ぶるいしただろうか~」(「オールド・レインコート」)、「ウェザー・コートは少しぼろでも とにかく汽車に乗ろう~」(「ガソリン・アレイ」)。私は、これらの「詩」に何を見ていたのだろうか・・・
最近、現在入手可能な浅川マキ作品、浅川マキ自選集(CD2枚組)『DARKNESS』シリーズⅠ~Ⅳ(1995~2007年)とDVD『幻の男たち/浅川マキ LIVE 1984(池袋文芸坐・京大西部講堂)』(2004年)を視聴する機会を持った。『DARKNESS』シリーズ8枚のうち3枚が「初期作品集」で1970年代の曲(一部1960年代を含む)のアンソロジーとなっている。この中に、私の体験した浅川マキのすべてが凝縮されていた。そして彼女のたったひとつの映像作品(市販されているものでは)『幻の男たち/浅川マキ LIVE 1984』。1984年のライヴの記録だが、彼女の実際のライヴを経験していない私にとって1970年代の曲(「淋しさには名前がない」・「ハスリン・ダン」・「夜」・「それはスポットライトではない」・「かもめ」・「夕凪のとき」)を歌う彼女の映像は貴重なものであった。この映像を頼りに、私は「1979年の浅川マキ」のイメージを組み立てる…
兵頭正俊の名は、吉本隆明編集の雑誌『試行』で初めて知った。60年代から70年代、学生たちの「教祖」的存在であった思想家吉本隆明は、私たちの世代にも大きな影響を与えていた。私たち(むろん限られた範囲の「私たち」ではあったが)は膨大な量の彼の著作に分け入り、やがて彼の編集する『試行』の存在を知るようになると、各人さまざまな方法でその最新号やバックナンバーを入手しようとした(一般の書店ではけっして入手することはできなかったのである)。
こうして手に入れた『試行』に1973年6月(38号)から1977年7月(48号)まで連載されていたのが、兵頭正俊の長編小説『二十歳(にじゅっさい)』である。掲載されている他の作品(評論や論文)が私たちには少し敷居が高かった(吉本の『心的現象論』をはじめとして)ため、新しい号を手にしてまず読むのは吉本の『情況への発言』とこの『二十歳』だった。
『二十歳』は連作<全共闘記>の<その三>にあたる。1978年末の時点で、この連作は<その五>の『死閒山(しかんざん)』(1977年、鋒刃社)のみが出版されていた(※注)。
『二十歳』の主人公は、1968年以降の京都R大学全共闘運動に参加しバリケード闘争を続けている無党派の学生である。物語は、R大闘争を綴った彼の「手記」という形で進行する。「手記」の中で彼は、R大を放逐されK大に「亡命」する全共闘の一員として、議論し、悩み、対立する民青同盟員に袋叩きにされ、傷ついた心と体で故郷に帰り、老いた父母との精神的葛藤の地獄を味わい、しかし再びバリケードに戻り、全共闘内部の党派抗争に巻き込まれ、スパイとして私刑(リンチ)され、徐々に精神のバランスを崩していく。
つまりは運動の後退期にひとりひとりの活動家が経験する総過程が描かれているのだが、人間ひとりひとりの個性を際立たせるその描写と感傷を排した文体は何か新しいものを私たちに感じさせた。たとえば柴田翔『されど われらが日々ー』(1964年)や高橋和巳『憂鬱なる党派』(1965年)の「全共闘版」を期待して読み始めた私たちに別な可能性を示した、と言っては大げさすぎるだろうか。しかもそこには、<新><旧>左翼へのある種の思想的総括が意図されている、と感じられたのだ。
『死閒山』もまた、R大全共闘運動の内部が描かれた長編小説である。ある党派の中で起こった「査問殺人事件」の顛末が主要なストーリーであるが、複数(それも多数)の登場人物の視点からこの事件とR大全共闘運動が語られ、さらに「劇中劇」として鎌倉幕府内の「源実朝暗殺事件」が同時進行していくという、やや複雑な構成をとっている。ミステリー的要素も含んだ読み応えのある小説で、この一作だけでも充分完結した世界を描いているのだが、<連作>の一部でもあり、『二十歳』の登場人物たちがこちらでも登場して物語に奥行きを与えている。
1979年、この連作の<その一>から<その五>までが「出版」という形で出揃う。8月、鋒刃社より<その三>『二十歳』刊行、12月、<その一>「助け舟」・<その二>「霙の降る情景」・<その四>「猶予の四日間」の3つの短編を集めた『霙の降る情景』刊行(三一書房)。すでに刊行されていた<その五>『死閒山』と合わせて、<全共闘記>はその半分ほどが姿を現したことになる。これらを再読することにより、私はこの連作によって描かれた<小宇宙>を確かめる…
さて、浅川マキと兵頭正俊という、ひとりの歌手とひとりの作家について語ることから「私の1979年」をスタートさせた。1970年代の終わり、私は何も浅川マキだけを聴いていたのではない。中島みゆきもカルメン・マキ(「OZ」時代の)も泉谷しげるも井上陽水も吉田拓郎も聴いていたし、その他の歌手の多くのヒット曲(もちろん「歌謡曲」も含めて)も聴いていたはずだ。兵頭正俊の作品だけを特別の思い入れで読んでいたわけではない。高橋和巳も庄司薫も立松和平も読んでいたし、もう記憶も定かではないたくさんの作家たちの小説も読んでいたはずだ。
けれど、あえていまここにふたりの名前のみをあげ、ふたりについてのみ語ってきたのは、ある予感というか仮説というか、私の思い込みによる。その思い込みは、「70年代の表現は、60年代の言葉と方法論によってなされ、80年代を迎えてその影響は少しずつ消えていく」というおそろしく単純で素朴な(というより粗雑な)図式を前提とする。この図式が果たして成り立つのか、私なりの検証を始めようとしているわけだが、もし「60年代的なるもの」があるとしたら、70年代を通して達成されたその最良のもののひとつが浅川マキの歌(唄)であり兵頭正俊の小説作品であるように、私には思われた。そして80年代、それに代わる言葉と方法論が現れ始める。
この思い込み、つまりは感性だけをたよりに、「60年代的なるもの」の「終わりの始まり」として、浅川マキと兵頭正俊について語ってみた。けれど、このふたりがいる風景は、私の思い込みとは裏腹に、なぜか妙に現代的に感じられるのだ。
(※注)
その『死閒山』の「あとがき」で著者は<全共闘記>について次のように書いている。
「<全共闘記>は、近代の総体を否定するという動機のもとに、方法としての創作思想の転移を、対象的現実との格闘のうちに文学的に形象化するといった問題意識につらぬかれた連作の作品世界である。ここで方法としての創作思想というのは、創作主体の対象的現実の把握のしかた、そしてその把握とは相対的に独立した、表現者としての言語表出のしかたそのものをいっている。この方法的なものの構築においてブルジョア的な文学思想の最良のものをのりこえ、初発の動機につながりたいというのが、いささか荷がおもすぎるわたしの現在の課題である。」
2 クロニクル 1979年1月~6月 (2007.7.19発行『越境するサル』№58)
1979年に、いったい何が起こっていたのか。私は、何をしていたのか。いくつかの記録と私の記憶を頼りに、このことを記述してみたいと思う。とりあえず前半、1月から6月までについての記述を試みる。ある年の政治情況を客観的に描き出すということは不可能に近い。それぞれの人間のそれぞれの情況を語ることができるだけだ。
1979年1月、たとえば私のいた大学ではその前年の三里塚闘争の余韻はまだ残っていた。1978年3月の成田空港管制塔占拠闘争参加者に対する処分の撤回を求める闘争は着実に闘われ、「処分凍結」という一定の成果をあげていたが、それが大きなうねりとなって「80年」を切り拓くとは認識されなかった。「70年安保」の前年1969年とは違うのだ。「80年安保」はなかった…
そして私も、少し長かった大学生活に終止符を打とうとしていた。まだ就職は確定していなかったが、かすかに希望が持てる所までは来ていた。
『昭和 二万日の全記録 第16巻 昭和51-54年』(講談社、1990年)と『20世紀全記録 Chronik 1900-1986』(講談社、1987年)から、1979年1月/6月の主な出来事を抜き出してみる。
1月1日、米中国交回復。1月13日、共通一次テストスタート。2月11日、イラン革命達成。3月28日、スリーマイル島原発事故。4月8日、東京・大阪で革新自治体崩壊。6月12日、元号法公布施行。6月28日、東京サミット開催。
こうやって列挙してみると、何となく時代の節目の出来事ばかりと感じてしまうから不思議だ。実際には、あとの時代になって重要な出来事として、つまりひとつの時代の「終わり」として或いは「始まり」として、私たちに認識されたものも少なくない。その時代の渦中にいて、未来からの視点をもって出来事を分析することは難しい。ただ、いつかこの日のことを重要な一日として思い出すだろう、という予感めいたものを感じる瞬間はわずかだが存在する。これらの出来事は、はたしてそのような「予感」を私に与えただろうか。
1月1日の「米中国交回復」は、1949年の中華人民共和国成立以来30年ぶりに正式に国交が樹立されたことを指している。この「国交回復」までの前史は、70年代を通して進行した。
71年、しばらくの間「文革」により国際大会から遠ざかっていた中国は、名古屋で開催されていた第31回世界卓球選手権(当時高校1年生だった私はその試合結果に一喜一憂していた)に「友好第一」を掲げて参加。その期間中の4月7日、中国はアメリカ卓球代表団を中国に招待すると発表した。4月9日、アメリカチーム総勢15名は羽田から北京に向かう。「ピンポン外交」である(アメリカ映画『フォレスト・ガンプ』にもそのシーンがある)。
同じく71年7月9日、ニクソン大統領訪中実現のためキッシンジャー大統領補佐官が極秘で北京を訪問する。これは「忍者外交」と呼ばれた。そして71年10月、中国国連加盟(それまで代表権を持っていた台湾の国民政府は追放)。翌72年2月2日、ニクソン大統領訪中。中国敵視の佐藤栄作内閣が打撃を受けた日本は、替わった田中角栄首相が訪中し、72年9月9日、日中共同声明に調印した。
しばらく間をおいて、1978年8月12日、日中平和友好条約調印を経て、この79年1月の米中正式国交回復がなされる。
これ以後の出来事にもふれよう。79年1月7日、ベトナム軍がカンボジアの首都プノンペンを攻略、ポル・ポト政権はタイ国境地帯へ逃げ抵抗を続ける。79年2月17日、中国軍が大兵力でベトナムに侵攻し、中越戦争開始。79年4月3日、中国はソ連との友好条約を廃棄。「社会主義」陣営は分裂し、中国の背後にアメリカと日本の影が見える。
1月13・14日の両日、国公立の120大学が参加する初めての共通一次学力試験が行われる。全国225の試験場で327,000人が受験した。
本人に志望大学の合否判定の手がかりがないため、データ作りを一手に引き受け受験産業が情報戦の主導権を握った。このテストの導入が、「新時代」の到来を告げたのだ。
この年高校教師となる私は、やがて(ずっと後、進学校勤務の際)この「共通一次テスト」の後身「大学入試センター試験」のデータを受験産業に頼ることになる。
2月11日、イラン革命勢力が勝利宣言。3月30日の国民投票を経て、4月1日、イスラム共和国発足。
前年78年12月10日の反パーレビ国王デモは拡大・先鋭化し、国王は国民戦線の穏健派バクチアルに組閣を要請し事態の回復を図る。しかし79年1月16日、国王はエジプトへの亡命を余儀なくされ、パリで臨時イスラム教革命評議会の設立を宣言していた反体制派の指導者でシーア派の最高指導者ホメイニは「帰国して暫定政府を樹立する」と発表。2月1日、ホメイニは14年3ヶ月ぶりに帰国…
『同時代も歴史である 一九七九年問題』(文春新書、2006年)の中で坪内祐三(※注)は、『世界』79年4月号のレポート「パリ通信・イラン革命の社会学」(藤村信)を引用しつつ、次のようにイラン革命とその後の過程を押さえる。
「パーレビ国王時代のイランは、親アメリカで、アメリカの多大な援助による軍隊は『ペルシャ湾の憲兵』といわれた。そのイランで、『反米、反イスラエル、反エジプト』をかかげるホメイニのイラン革命が起こった。…そしてイラク国内のシーア派がその動きと連動することを恐れたイラクのバース党政権のフセインとの間で、一九八〇年九月、イラン・イラク戦争が起きた。そのフセインのイラクを軍事的にサポートしたのがアメリカだった…」(前掲書)
さらに坪内は、『中央公論』80年3月号のレポート「こうして弱小国は蹂躙された」(中東ジャーナリズム研究会)から、79年12月の「ソ連、アフガニスタン侵攻」に先立つ4月13日、反政府活動家たちによって親ソ連政権に対する「ジハード(聖戦)」が宣言された事実を紹介する。この反政府活動を支援していたのがアメリカであり、その活動にサウジアラビア生まれのビン・ラディン青年も参加していた。そして坪内は、次のように書く。
「つまり、一九七九年二月十一日にイラン革命が起き、二カ月後、四月十三日に『ジハード』がはじまった。この二カ月の間に世界は(しかしその『世界』の一員であることに私たちはまったく気づいていなかった)大きく変りはじめていたのだ。」(前掲書)
やがて「9.11」へとつながっていくこの流れの重要性に、もちろん私は気づいていなかった。イラン革命の推移を横目で見ながら、私は教員採用の最後の面接に向かう。数日後、本州最北端の町にある定時制高校に採用が決まったとき、もう3月は残り少なかった。
3月28日、アメリカ・ペンシルベニア州スリーマイル島原子力発電所の二号炉(加圧水型軽水炉)が放射能漏れを起こす。
のちに「原発事故として史上最悪」という米原子力規制委員会(NRC)の調査結果が出たが、当初NRCは「放射線量は基準値を下回る」とし、「原発周辺に住む人々に対する危険は、すでに過ぎ去った」(3月29日)と発表。ところが3月30日朝、新たな放射能漏れが事故炉から発生、州政府は緊急事態を宣言し、避難命令を出す。最悪の事態であるメルトダウン(炉心溶融)の可能性が生じたのである。「チャイナ・シンドローム」の恐怖が全米を襲った…
4月1日、NRCは「事態は好転した」と発表。9日、州政府は「安全宣言」を出すが、この事故をきっかけに世界中に反原発運動は広がっていく。
ちょうどこの「緊急事態宣言」から「安全宣言」まで、3月末から4月上旬までの日々、私は下北郡大間町への引っ越し準備と赴任の慌ただしさの中にいた。商店の2階の下宿で、ハイエース1台分の荷物を整理しながら、ひたすら新しい土地での生活に慣れようとしていた。
4月8日、統一地方選挙。東京都知事選挙では、自公民の推す鈴木俊一が社共の推す太田薫に圧勝。美濃部亮吉当選以来12年続いた革新都政は崩壊した。大阪府知事選挙では、全国唯一の共産党系知事黒田了一が六党大連合の推す岸昌に三選を拒まれる。革新自治体の二大拠点は失われ、以後「革新」側は混迷を深めていく。
海外では、イギリス保守党が政権奪取、「鉄の女」サッチャーが首相になり(5月3日)、「自由経済主義」を掲げる。
6月12日、元号法公布施行。6月28日、東京サミット(第五回主要先進国首脳会議)開催。いま考えると、その後の歴史にとって重要な意味を持つ出来事が続いている。しかし、当時の私にはこれらの出来事を分析する余裕はなかった。
すでに教員生活はスタートしていた。私は1年生5人の担任として、定時制全体で20数名の生徒の社会科教師として、新生活にのめり込んでいた。昼起床し、午後5時頃まで授業の準備や雑務に費やし、その後ホーム・ルーム、授業、午後10時に勤務を終える生活。気がつくと暗くなっている外を眺め、生徒たちがバイクなどで登校してくるのを待つ生活。勤務終了後、空腹を充たすため盛り場に出かける生活。部屋にテレビはなく、世界と無関係に生きていると感じてしまう生活。
やがて私は、月刊誌『世界』・週刊誌『朝日ジャーナル』・週刊紙『日本読書新聞』の定期購読を始める。町にひとつしかない書店から配達されるそれらの雑誌や新聞は、世界と私を結ぶ回路のように思われた。
(※注)
かつて私は、『越境するサル』№45「1973年、ソルジェニーツィンの年(その2)」の中で、坪内祐三『一九七二』(2003年)について次のように紹介した。
『一九七二』は、1968年をピークとする時代の変動が1972年に完了するという視点に立ち、「はじまりのおわり」であり「おわりのはじまり」でもある1972年に起こった出来事(政治から風俗・サブカルチャー・ミュージックシーンにいたるまで)について丹念に論じた労作である。特に「連合赤軍」に関する部分(それは本書の中でかなりの割合を占めているのだが)は圧巻である。
その坪内が、「ずっと考え続けていたテーマ」である「一九七九年問題」について展開しているのが文春新書『同時代も歴史である 一九七九年問題』である。最初に読んだ際は『一九七二』に比べて不満を感じたが、何度か読み返しているうちに少し印象が変わってきた。いまその理由を正確に述べることはできないが、この「1979年へ」シリーズ全体を通して言及していきたいと思う。
3 芥川賞候補作家たち (2007.7.29発行『越境するサル』№59)
以前、『越境するサル』№39「佐藤泰志、きみの鳥はうたえるか?」の「注」で、芥川賞受賞を逃した作家たちの注目すべき落選作を、第81回(1979年上半期)から第100回(1988年下半期)までの20回(つまり昭和最後の10年間)から抜き出してみたことがあった。
今回、79年の候補作(受賞作も含めて)をすべて探し出し、読んでみようと思った。
1979年、芥川賞の候補となった作品を列挙してみる。少々煩雑だが、当時の「文学地図」の一端を見ることができる。
第81回(上半期、78年12月1日から79年5月31日までに発表されたもの)の候補作品は、立松和平『閉じる家』(『文學界』79年5月号)・村上春樹『風の歌を聴け』(『群像』79年6月号)・北澤三保『逆立ち犬』(『文學界』79年2月号)・増田みず子『ふたつの春』(『新潮』79年4月号)・青野聰『愚者の夜』(『文學界』79年6月号)・玉貫寛『蘭の跡』(『季刊藝術』第48号)・重兼芳子『やまあいの煙』(『文學界』79年3月号)・吉川良『八月の光を受けよ』(『昴』79年6月号)の8編。
受賞作は重兼芳子『やまあいの煙』と青野聰『愚者の夜』の2編である。「選評」を読むと、この2作の受賞については多くの選考委員が納得したことがわかる。
『やまあいの煙』は、火葬場で働く主人公と彼の出会った人々が織りなす「童話」的世界(もっとも人々が抱える事情は深刻なものだが)が描かれている。読後感は仏教説話のようで、やすらぎすら感じさせる。重兼は3度目のノミネートであった。
『愚者の夜』は、放浪の旅の末に日本に帰国した青年が主人公である。旅の途上で知り合い、パリで結婚生活を送ったオランダ人女性と、日本で暮らしている。かつて脱出した日本での苦悩にみちた結婚生活と愚行、こちらは「神話」的ともいえる作品だ。青野は2度目のノミネートでの受賞である。
第82回(下半期、79年6月1日から79年11月30日までに発表されたもの)の候補作品は、森瑤子『誘惑』(『すばる』79年10月号)・増田みず子『慰霊祭まで』(『文學界』79年12月号)・森禮子『モッキングバードのいる町』(『新潮』79年8月号)・吉川良『その涙ながらの日』(『すばる』79年10月号)・松浦理英子『乾く夏』(『文學界』79年10月号)・立松和平『村雨』(『文藝』79年9月号)・尾辻克彦『肌ざわり』(『中央公論』79年10月号)・小関智弘『羽田浦地図』(『文學界』79年10月号)の8編。
受賞作は森禮子『モッキングバードのいる町』。「選評」によると、尾辻克彦『肌ざわり』が最後まで争っている。
『モッキングバードのいる町』の主人公は、戦後アメリカ軍人と結婚してアメリカ中央部に移住した日本女性である。移住して24年になる主人公の目を通して、日本人妻たちの社会の日常と事件、そして彼女たちの悲しみが描かれている。
受賞作以外に目を向けてみる。実は、この落選作(作家)たちの豊饒さについて語るのが今回のテーマといってよい。
『乾く夏』は、78年下半期、葬式の「泣き屋」と「笑い屋」の少女をめぐる寓意にみちた作品『葬儀の日』(『文學界』78年12月号、文學界新人賞受賞)で候補になった松浦理英子の2度目のノミネート作である。前作同様、相互補完的ともいえる女主人公たち(こちらは女子大生という設定)の関係をめぐる物語だが、前作に比べ読後感は軽やかで、著者のある種の変容を感じさせる。
松浦のノミネートはこの2作のみ。その後、『セバスチャン』(1981年)・『ナチュラル・ウーマン』(1987年)を経て『親指Pの修業時代』(1993年)にたどり着く。
増田みず子『慰霊祭まで』の主人公は「毒物研究所」に勤務する女性である。5年前に突然辞職し彼女の親友と結婚した上司(実は彼女自身が心を寄せていた)についてまだこだわりを捨てきれない。その元上司が余命幾ばくもない状態であることを知った彼女の、日常の中で葛藤する様が描かれている。
増田はこの作品も含めて6度候補となるが、受賞しなかった。その後、『麦笛』(1981年)を経て『自由時間』(1984年)で野間文芸新人賞、『シングル・セル』(1986年)で泉鏡花文学賞と、着実に評価されていく。
このふたつの才能に対して、選考委員たちは期待しながらもまだまだ辛い評価である。
「小説に表現するものを、個人的な歪みの強い思いこみ(たとえば松浦理英子『乾く夏』や増田みず子『慰霊祭まで』におけるような)から、一般性にまでどうきたえるか。その仕組みは素質として固有の鋭さを持つ人ほど、よく考えねばなるまい。」(大江健三郎)
「『慰霊祭まで』はこの人の前三作より、ずっと良くなっている。しかし全体としての力と魅力に乏しい。」(吉行淳之介)
「『乾く夏』は、天才少女のつもりはやめて、前作にあったひたむきさに戻ってほしい。」(吉行淳之介)
尾辻克彦『肌ざわり』は、多くの委員たちにその資質と文体(文章)が評価された小品である。「父子家庭」の父と娘の会話と、主人公(父)が床屋に行って帰ってきたエピソードだけで、著者が自ら「超私小説」と呼ぶ不思議な日常の世界が描き出される。
尾辻克彦とは、60年代から70年代を「前衛芸術家」として駆けぬけた赤瀬川原平の別名である。78年、彼は自らの「模型千円札事件」(※注)を題材とした最初の小説『レンズの下の聖徳太子』を発表。翌79年、尾辻克彦名で『肌ざわり』を書き中央公論新人賞に応募、受賞作として『中央公論』に発表され芥川賞にもノミネートされる。
この後、80年に『父が消えた』で芥川賞受賞(第84回)、83年、『雪野』で野間文芸新人賞受賞するが、やがて彼は「尾辻克彦」という名を封印する…
さて、ここまで私は北澤三保・玉貫寛・吉川良・森瑤子・小関智弘の5人についてふれていない。今回この5人の作品を読み、それぞれに新しい発見やら思い入れやらがあったわけだが、もっと語らなければならない2人の作家に紙数を費やしたい。2人の作家とは、もちろん、立松和平と村上春樹である。
78年、立松和平は69年以降書きついできた(その間、職を転々とした末、宇都宮市役所に73年から勤務)小説を3つの短編集として次々に出版する。『途方にくれて』(5月)・『今も時だ』(8月)・『ブリキの北回帰線』(8月)の3冊である。12月、足尾銅山と思われる廃鉱の町に生きる若者を描いた『赤く照り輝く山』(『文學界』78年12月号)が芥川賞候補となる。12月、市役所を退職し、以後文筆活動に専念。
79年上半期、『赤く照り輝く山』の続編『閉じる家』が芥川賞候補になる。この2つの作品は合体され長編『閉じる家』として出版される(9月)。
下半期、『村雨』が芥川賞候補になる。この作品は、都市郊外のビニールハウスでトマト栽培に奮闘する青年を描いたもので、その後書きつがれて『遠雷』(1980年、野間文芸新人賞受賞)となる。『遠雷』は、81年に映画化(ATG、根岸吉太郎監督)される。
この年はほかに、創作集『火の車』(2月)・『たまには休息も必要だ』(8月)と自身の学生運動体験が色濃くにじむ長編『光匂い満ちてよ』(9月)の刊行、さらには長編『歓喜の市』の序章発表(10月)がある。立松は、全速力で1979年を走り抜ける。
立松は3度芥川賞候補となるが、受賞には縁がなかった。受賞にもっとも接近したと思われる『村雨』の「選評」もあまり芳しくない。そもそも話題にしている委員が少ない。次のふたりなどは好意的な方なのではないか。
「みずからつくり出した風俗になれしたしむようになれば、その実力は認められて久しい書き手として、方向を新しくもとめるべきではないか?」(大江健三郎)
「『村雨』(立松和平)は、百枚あたりまで風俗をなぞっただけのものとしかおもえないが、そのあとの五十枚ほどは、エネルギーが詰まってきて、リアリズムの描写に良い意味でメリメリとヒビが入り、かなり面白かった。しかし、義務の読書でなくては、前半でやめていたろう。」(吉行淳之介)
大江も吉行も、「風俗」という用語を使っている。未来の『遠雷』も、この『村雨』部分だけではなかなか真価を認めてもらえない。
ちょうど私は、78年出版の『途方にくれて』・『今も時だ』・『ブリキの北回帰線』を学生時代の終わりに、あるいはその余韻が残る時期に読んだ。そして、青春の挫折を描いたといえる『光匂い満ちてよ』を自分と重ね合わせるようにして読み、さらに『遠雷』誕生に立ち会った。『遠雷』は、立松が「ビニールハウスという大地」に生きていく主人公を造型することによって、やがて「遠雷四部作」へと発展していく記念碑的作品である。
たまたま私は79年を中心に立松和平の作品と出会ったのだが、それは私が自分の拠って立つ場所を模索していく過程と符合していた。これは、多くの若い世代(かなりの幅がある)の青春からの離陸の軌跡とも符合していたのではないか。だとすれば、「79年の立松和平」について語ることは、そのまま多くの人間の青春への訣別のドラマについて語ることになる。
立松は、自らの青春とその挫折を描き、つまり「けり」をつけ、変わりゆく時代の中で生きていく人間像を作り上げ、さらに自らのルーツである父母の生き様とその時代を描こうとした。まるで、自分の世代に課せられた宿題のように格闘し、同世代に向けて書き、あとに続く世代に向けて書いた。そう私には思われた。あとに続く世代とは、私たちのことだ。
最後に、村上春樹についてふれよう。立松とは違い、私は村上春樹とリアルタイムで出会ってはいない。だが、彼の出現を抜きに、1979年を語るわけにはいかない。
『風の歌を聴け』は、群像新人文学賞獲得の後、芥川賞にノミネートされた。『週刊朝日』(79年5月4日号)は、「群像新人文学賞=村上春樹さんは、レコード三千枚所有のジャズ喫茶店店主」と題して、彼の出現を記事で紹介している。
その記事の出だしはこうだ。「東京・千駄ヶ谷でジャズ喫茶(夜はバー)を経営している二十九歳の青年、村上春樹さんの小説『風の歌を聴け』(二百枚)が第二十二回『群像新人文学賞』に入選した。選考委員五氏が全員一致、文句なしの決定だった。変わり種作家が続出する現代文学風景の中に、またひとり異色新人の登場である。」
記事はやがて、記者のジャズ喫茶訪問記の形をとりながら、店経営のいきさつや小説執筆にいたるプロセスなどを村上に語らせる。もちろん『風の歌を聴け』の内容の紹介も忘れない。作品は次のように要約される。
「人口七万、海から山に向かって伸びた惨めなほど細長い街の山の手にある『ジェイズバー』のバーテン、ジェイと、東京の大学から夏休みで帰ってきている生物学専攻の『僕』と、小説を書いている『鼠』との友情、ジェイの店の洗面所に転がっていた左手の指が四本しかないレコード店の女と『僕』とのセックスのない交渉などが、しゃれた会話で、ものうく綴られてゆく。」
そして、その後「定説」というか「伝説」となった彼の読書傾向も次のように書かれている。
「この新人、日本の小説は、ほとんど読んだことがない。八年前、読むものがないのでたまたま目についた谷崎潤一郎の『細雪』を読んだくらいのもの。…読んだのは、もっぱらアメリカ文学。」
この記事の結びをいま読むと、まるで村上自身が戦略的に創作した「訪問記」のように思えてしまうのだが…もっと素直に受け取るべきだろうか。
「文名をあげるまでの仮の姿などではなく、レッキとしたジャズ喫茶のマスターである村上春樹さんは、突如、自分が『作家』と呼ばれる存在にされたことに、戸惑っているらしい。」
「『この仕事をしていると、小説を書く時間は、一日に一、二時間しか割けませんでねえ』」
だが、芥川賞候補としての『風の歌を聴け』は、注目されながらもまだそれほど高い評価を受けているわけではない。
「村上春樹さんの『風の歌を聴け』は、アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしてゐます。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。」(丸谷才一)
「村上春樹氏の『風の歌を聴け』は、二百枚余りの長いものだが、外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色のある作家のようで、私は長い眼で見たいと思った。」(瀧井孝作)
「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。」(大江健三郎)
村上が選考委員にある程度評価されるのは、翌80年上半期の候補作『一九七三年のピンボール』からである。もっとも彼のノミネートは、それが最後であった。
私が村上春樹に本当に出会うのは、数年後のことである。『風の歌を聴け』が掲載された『群像』は読んでいるはずだが、この作品の価値には気がつかなかった。当時私が求めていたのは、違う種類の文学だった。その求めていた文学たち(それは兵頭正俊だったり立松和平だったりした)と、村上春樹の文学との間に通じるものがあることに気づくのは、さらにずっと後のことだ。
ともあれ、1979年、「僕」と「鼠」の物語は始まった。そして、私の中で、まだその物語は続いている。
「芥川賞候補作」という窓からのぞいた1979年の文学地図。それは思っていた以上に豊饒さを感じさせるものであった。この切り口で、もう少し先まで行ってみたい。
(※注)
赤瀬川原平が1963年の読売アンデパンダン展をはじめとする一連の展覧会に出品した千円札紙幣の“模型”が「実物大の千円紙幣に紛らわしい外観を有する」として、警視庁の摘発・捜査を受け起訴された事件。10カ月に及ぶ公判の末、1967年6月24日、東京地方裁判所は懲役3カ月、執行猶予1年の有罪判決を下した。
<後記>
次号も特別号として「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (中)」を配信する。内容は「4 <過渡期>の映画たち(1)」と「5 <過渡期>の映画たち(2)」。「70年代映画史」として便利な内容になっている、と密かに自負しているのだが…配信は2週ほどあとにしたい。
(harappaメンバーズ=成田清文)
※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田清文さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。