バルセロナ空港にたどり着いた時、すでに午後8時をまわっていた。体の疲れはあったが、明日への期待からか、心は軽かった。何といっても、バルセロナなのだ…
「スペイン紀行(下)~バルセロナ~」
カタルーニャ州の州都バルセロナ。まず、この街への思いから語るべきだろう。それは、1冊の本との出会いから始まった。
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』(1938)。のちに、スターリン主義の寓話とも言うべき『動物農場』(1945)や、全体主義的ディストピア(反ユートピア)の世界(それは監視管理社会なのだが)を描いた『1984年』(1949)で知られるオーウェルは、1936年、スペイン内戦に赴く。そして、フランコのファシスト軍に対抗するため、共和国側つまり人民戦線側の義勇兵として内戦に参加する。このファシスト軍との戦いと、バルセロナで起こった人民戦線内部の内紛・市街線の体験をもとに書かれたルポルタージュが『カタロニア讃歌』である。そこには、人民戦線を内紛に導いたスターリン主義への批判とともに、スペイン人やカタルーニャ人に対する愛情や尊敬も語られていた。そしてここカタルーニャは、内戦に勝利したフランコによってカタルーニャ語の使用を禁じられ、フランコ死後の1977年、ようやく自治権を獲得する。
昨年、カタルーニャ独立をめぐるさまざまな対立が報じられるたびに、私は『カタロニア讃歌』や、その映画版ともいうべき『大地と自由』(1995、ケン・ローチ監督)を思い起こした…
バルセロナ到着の晩、添乗員さんに案内されたホテル近くのバル(レストラン)で遅い夕食をとった。小皿料理(タパス)とワインとビール(カーニャ)。店の人たちとの軽い会話も経験し、少しずつ、バルセロナに来ているという実感がわいてきた…
スペイン6日目。午前8時半、ホテル出発。バルセロナ市内観光。
今回のバルセロナへの旅は、一人の天才建築家の足跡をたどることに費やされた。アントニ・ガウディ(1852-1926)。カタルーニャ生まれで、スペイン19世紀末の新しい芸術・モデルニスモを代表する建築家。彼のサグラダ・ファミリアを見るために、世界中から人々がバルセロナを目指す。私たちもだ。
バスの窓から、バルセロナの街を撮影しようと何度もシャッターを切る。最初の目的地グエル公園まで、次々に現れるすべての街角が魅力的に感じる。
グエル公園到着。モニュメントゾーンに入場する。
ガウディのパトロン、実業家グエルは市街を見下ろす山の手に60戸の宅地を造成し、イギリス風の田園住宅街を造ろうと構想した。彼の依頼を受けて、ガウディは1900年に建設を開始するが、1914年、建設は中止。のちに公園として開放された。カラフルな破砕タイルで装飾されたベンチが設置されたテラス、ばら装飾を天井に持つ列柱ホール、これもカラフルな破砕タイルで飾られたドラゴンをシンボルとする中央階段…どこを歩いても、ガウディの強烈な色彩と曲線が私たちを驚かせる。
バルセロナの街を一望できるテラスから、建設中のサグラダ・ファミリアと地中海の水平線が見える…
さて、サグラダ・ファミリアだ。その姿が近づくにつれ、向かう人々の歓声のようなため息のようなざわめきが、さざ波のように伝わってくる。ついにここにたどり着いたのだ、という感慨に、少し興奮している自分がいる。
サグラダ・ファミリア、聖家族贖罪教会。1883年、31歳のガウディが2代目建築家に就任、1926年に事故で不慮の死を遂げるまでその建設に情熱を注いだ。
まず、ガウディが自ら指揮をとった、北東側の入口にあたる「生誕のファサード」を見上げる。キリストの生誕にまつわる装飾が施されており、日本人建築家の外尾悦郎氏も彫刻を担当している。
聖堂内部は、ステンドグラスの光に満たされ、白い無数の柱が立ち並ぶ、まるで森のような空間。2010年、正式にカトリックの教会として認定された。
キリストの受難・死・復活を表現した、南西側の入口「受難のファサード」から外に出る。興奮状態はずっと続いている。
工事開始は1882年。完成予定は、ガウディ没後100年にあたる2026年…
午前最後の訪問場所は、バトリョ邸。繊維業を営むバトリョ家の依頼を受け、ガウディが増改築を手がけた(1904-1906)。この建物のテーマは海。海面を思わせる、色とりどりのガラスモザイクが埋め込まれた外壁。海底を思わせる建物内部。波打つような天井。すっかりガウディの世界に染まってしまった私たち…
昼食は、バトリョ邸からほど近いバルへ。添乗員さんに案内されて、計10人でピンチョス(パンに具を載せて楊枝で刺したタパス)を楽しむ…
午後は、日本語ガイド付きオプショナルツアー「カタルーニャ公営鉄道で行く 世界遺産コロニアルグエル午後半日観光」。この日は月曜のため、ピカソ美術館もミロ美術館も定休日。選択肢として「F.C.バルセロナのカンプノウ・サッカースタジアム見学」もあったが、コロニアグエル教会を選択した。この選択が、実は大正解だったのだ。
バルセロナで少年サッカーのコーチをしているという男性ガイド(なんと盛岡出身だった)と旅行社の研修生(女性)、それに私たち2人…4人で路線バスと電車を乗り継いで、目的地を目指す。この日のコロニアグエル教会・オプショナルツアー参加者は私たち2人だけ。贅沢な旅となった。
スペイン広場駅からFGC(カタルーニャ鉄道)の電車に乗り、25分でコロニアグエル駅へ。駅の外に出たら、チケット販売所であるインフォメーションへ向かう。
このインフォメーションの展示室で、ガウディが10年の歳月をかけて研究していた「逆さづりアーチ構造模型」を観ることができた。ガウディ建築の秘密を垣間見たような気分を覚える。
コロニアグエルとは、ガウディのパトロンであるグエルが作った、自らの事業の繊維工場を中心とした工業団地。敷地内に労働者の住居や学校、病院とともに礼拝用の教会堂も建てられた。1898年、ガウディはこの教会堂の建設を依頼され、10年にわたる「逆さづり実験」を経て、1908年着工。しかし1914年、ガウディは建設から退き、サグラダ・ファミリアに専念。その翌年、助手たちによって半地階部が落成。教会堂として利用されたが、1916年、建設は中断。今でも上層は未完成である。
松林に囲まれた小高い丘の傾斜地に、ガウディの最高傑作とも言われる(2005年、世界遺産に登録)その教会はある。
ガウディ建築定番の破砕タイルを用いた壁の装飾、蝶の羽根を思わせるステンドグラス、建物を支える柱をつなぐレンガのアーチ、放射線状に張りめぐらされたヤシの木のような梁…その複雑な形状に圧倒され、心を奪われる。しかも見学者は私たち4人だけの貸し切り状態…
その帰り道。スペイン広場で現地ガイドと別れ、コルツ・カタラナス大通り(グラン・ビア)をホテルまで歩く。バルセロナ大学を目印に。この日はあと、シーサイドのレストランで皆と一緒の夕食。シーフードのタパスを食べながら、カヴァ。スペイン最後の夜…
スペイン7日目。早朝、ホテルを出発、バルセロナ空港へ。8時30分、バルセロナ発、9時50分、マドリード・バラハス空港着。黙々と手続きを済ませ、歩き、待機し、歩く。
バラハス空港でスペイン最後の食事、生ハム(ハモン・セラーノ)サンド。そう言えば、スペイン最初の食事も生ハムだった。毎朝の食事も生ハム。生ハムで始まり、生ハムで終わる旅…
12時20分、マドリード・バラハス空港を発つ。
<後記>
やっと、「スペイン紀行」を完結させることができた。書くことによって、旅の全行程を確認し、さらに、自分がスペインに求めていたものを発見することができた。結局、この紀行文は、自分に向けて書かれたものだ。
しばらく、『越境するサル』は休息に入る。だが、次に発信したいものを、早くも考えている自分がいる…
(harappaメンバーズ=成田清文)
※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、
個人通信として定期的に配信されております。