2022年8月24日水曜日

【越境するサル】№.207「ケストナー『ファビアン』へ~映画『さよなら、ベルリン…』~」(2022.8.25発行)

 

 8月、靑森市「シネマディクト」で『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』(2021 ドミニク・グラフ監督 178分)を観た。「シネマディクト」には2週間ほど前にも訪れていたが(『スープとイデオロギー』)、その時と同様、私にとって大事な作品との出会いとなるはずであった。

 そして期待通り、私は細部にいたるまで堪能した。語るべき事が、山ほどあるように思われた……


「ケストナー『ファビアン』へ~映画『さよなら、ベルリン…』~」


 午前中の仕事をひとつ終えて、すぐさま弘前駅へ向かった。午前10時44分発の特急「つがる1号」で青森を目指す。映画の開始は午後2時過ぎだが、ちょうど「青森ねぶた祭」がスタートする日だった。できるだけ人混みを避けて、早めに目的地周辺にたどり着き、昼飯と珈琲の時間も確保したかった。なにしろ、隣の街へ映画を観に出かけるというのは、ちょっとした小旅行なのだ。

 『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』は、第71回ベルリン国際映画祭(コンペティション部門)に出品され好評を博し、ドイツ映画賞では主要3部門を受賞した。

  監督は本邦初公開のドミニク・グラフ。ドイツ映画界のスター、トム・シリングとザスキア・ローゼンダールが主演を務める。

 舞台は、狂躁と頽廃の1920年代を経てナチスの政権獲得へと向かう、1931年のベルリン。

 作家を志してドレスデンからベルリンにやってきた青年ファビアンは、出口のない不況の中、自らも失業し行く先を見失う。享楽的な生活に明け暮れる彼は、女優志願のコルネリアと出会い愛し合うが傷つき、唯一の親友ラプーデの破滅に立ち会う。失意の彼が向かうべきは、愛する母の待つ故郷ドレスデンなのか……


▽予告編 『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』 

 


原作は、ドイツ児童文学の巨匠エーリヒ・ケストナー(1899-1974)の『ファビアン あるモラリストの物語』(1931)。邦訳は、みすず書房刊(2014 丘沢静也訳)。


 なお私は、今は絶版となっている「ちくま文庫版『ファービアン あるモラリストの物語』」(1990 小松太郎訳)で読んだ。ずっと昔購入したものだが、最近再読してその魅力をようやく理解することができた。   

 出版された1931年は、ケストナーの出世作となった『エミールと探偵たち』(1929)と傑作『飛ぶ教室』(1933)のちょうど中間にあたる時期である。「大人のための」唯一の長編小説である本書は高い評価を受け外国語にも翻訳されたが、1933年ナチが権力を掌握すると、5月10日、ベルリンで焚書の対象となった……


 映画に戻る。

 ドミニク・グラフ監督は、原作者ケストナーが1929-30年に体験したであろうベルリンの「日常」を、できる限りリアルに再現しようとする。

 登場人物たちは普通に夢や志を持ち、その中のある者はそれを実現できず人生に敗れる。社会にはまだ戦争(第一次大戦)の傷痕が残り、ヴァイマール共和国の栄光もベルリンの繁栄も束の間の夢のようだ。それでも若者たちは、未来に向けて愛を語り、何者かになろうともがく。

 主人公ファビアンも、作家を志しながらまだ何者にもなっていない。タバコ会社で広告のコピーライターをしているが、その仕事も失ってしまった。コルネリアとの愛も先は見えない。ナチスは政権獲得はもう少し先だが、その足音は着実に迫っている。

 物語の後半、愛する母と故郷ドレスデンが登場する。古くからのケストナーファンは、自分たちが親しんだケストナーの評伝や年譜を反芻しつつ、「ああ、これは、もうひとりのケストナーの物語だ」と納得する。

 映画の原題についている副題は「Going to the Dogs(破滅していく)」だ。原作小説の元々の題名でもある。

 ケストナー自身は破滅しなかったが、ファビアンは破滅へと向かう。ふたりの運命の違いは紙一重のように思われる。

 ファビアンは、ケストナー自身だ。


 さて、ケストナーについて私は、2019年の『越境するサル』№187「ドイツ紀行(上)」の中でふれている。「ドレスデンとケストナー」をめぐる内容だ。

http://npoharappa.blogspot.com/2019/04/187201941.html


 さらに2021年4月、陸奥新報のリレーエッセイ『文人カフェ』「ケストナーへの旅」の中でも、1929年のベルリンを描いたドイツのテレビドラマ『バビロン・ベルリン』に重ね合わせる形で「ドレスデンとケストナー」についてふれた。

 これからも何度か、1920-30年代のドイツについて語ることになる。




<後記>

  №206に続いて、映画に関する内容となった。次号№208も映画について、9月10日開催の第38回harappa映画館「函館発 佐藤泰志映画祭2」の報告をする予定だ。

今年3月に開催中止となった企画だが、佐藤泰志原作の映画2本(『オーバー・フェンス』『草の響き』)上映とシネマトーク(プロデューサー菅原和博氏)、充実の内容である。

https://harappa-h.org/harappa-wp/?p=627



(harappaメンバーズ=成田清文)

※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、

個人通信として定期的に配信されております。


2022年7月28日木曜日

【越境するサル】№.206「映画日誌2022年6-7月~そして『スープとイデオロギー』へ~」(2022.7.29発行)

 


 20213月に205を発信してから、1年半近く『越境するサル』は休止していた。10数年間の歴史の中で最も長い中断である。この中断の主要な原因が、人生初の書籍出版(20217月、『佐藤泰志をさがして』)と、1昨年から続いていた新聞へのエッセイ連載(20208月~20216月)であることは間違いない。要するに、体力が足りなかったのだ。ただ、この通信の内容について、ある種の迷いというか、行き詰まり感が徐々に蓄積していたのも事実だ。
 無事出版にこぎつけ、新聞の連載も終了し、少し体力が回復したはずだったが、なかなか通信の再開とはならなかった。コロナ禍による諸活動の停滞のせいにはしたくないが、明らかに意欲が低下していた。今までのように、たとえばドキュメンタリーに関して時評的なものを書き続けるとか、珈琲に関して出会いを記録し続けるとか、あるいは現代の思想や文学に目を配り続けるとか、ある種の使命感に突き動かされてきたものが多少窮屈に感じられてきたのだ……
いま、ようやく『越境するサル』を再開する気分になっているのだが、この際「原点」に戻ろうと考えている自分がいる。「原点」とは、この通信をスタートさせた時の「その時書きたいものについて書く」という単純なスタンスのことだ。
 まずは、いま一番書きたい(語りたい)、最近観た映画たちについて書く。ジャンルを問わず、私が映画館で観ることを選択した映画たちについての、とりとめのない記録。「映画日誌」から始めよう……

 

 


映画日誌20226-7月~そして『スープとイデオロギー』へ~」

  少しずつ、少しずつ、私は映画館に出かける。八戸、青森、大館……まだ遠くまでは行けない。


6月某日 教育と愛国2022 斉加尚代監督 107分)

 

八戸「フォーラム八戸」。

2017年、MBS(大阪・毎日放送)で放送された番組『映像’17 教育と愛国~教科書でいま何が起きているか~』は、その年のギャラクシー賞テレビ部門大賞を獲得するなど大きな話題を呼んだ。

「教育改革」「教育再生」の名のもとに政治が教育に介入していく過程を、倒産に追い込まれた教科書出版社の元編集者や保守系政治家たちが推奨する教科書の執筆者などへのインタビューを軸に構成したこのテレビドキュメンタリーに、その後の追加取材部分を加え再構成したのが、この劇場版『教育と愛国』である。語りは、井浦新が担当している。


▽予告編『教育と愛国』



会場の「フォーラム八戸」は、ドキュメンタリー映画としては異例の熱気に包まれていた。上映後に行われた、プロデューサーとゲスト(東奥日報編集委員・斉藤光政氏)によるトークイベントまで、その熱気は続いた。



 

6月某日 『ベイビー・ブローカー』(2022 是枝裕和監督 130分)

 青森「青森松竹アムゼ」。

 『万引き家族』の是枝裕和監督と『パラサイト 半地下の家族』のソン・ガンホ、カンヌ国際映画祭パルムドール監督とアカデミー賞作品賞受賞作主演男優のタッグ。さらには韓国が誇る魅力的な役者陣とスタッフたち。私たち観客の期待は否が応でも高まるが、その期待を超えた満足感に浸ることができた……

 

▽予告編『ベイビー・ブローカー』

 子を捨てた母・ブローカー・刑事、<赤ちゃんポスト>から始まった彼らの、釜山からソウルへ向かうロードムービーは、まぎれもない「家族」の物語だ(またしても「疑似家族」だが)。

 

 

7月某日 林海象映画祭in御成座 FINAL(第十回大山家上映会)

 大館「御成座」。

 

BOLT2019 林海象監督 80

『二十世紀少年読本』(1989 林海象監督 106分)

『夢見るように眠りたい』1986 林海象監督 84分)

 

 最近、すっかりお気に入りの街となった大館の、もっともお気に入りの場所「御成座」。このレトロな映画館で開催された「林海象映画祭in御成座 FINAL」で、林海象監督の最新作と初期の代表作2本を鑑賞した。

BOLT』は、監督が主演に永瀬正敏を起用し、東北工科大学の学生たちと共に7年かけて完成させたBOLTLIFEGOOD YEAR」の短編三部作。

 「BOLT」は、大地震後の建物内で漏れている高い放射性の液体を止めるために、ボルトを締める作業に向かう男たちの物語。彼らの恐怖感と緊張感がリアルに伝わってくる。

LIFE」は、避難区域内で孤独死した独居老人の遺品整理を仕事とする男を、「GOOD YEAR」は、元の職場(原発であることが見て取れる)に戻ろうとするが叶わない男をそれぞれ描くが、どちらも「BOLT」の後日譚として位置づけられる。

3作品続けて観ると、徐々に主人公(永瀬正敏)の生き様に感情移入していく自分に気付く。これは同時代の物語なのだ。

 



▽予告編『BOLT

  

 三上博史が兄を演じる、サーカスで育った兄弟の物語『二十世紀少年読本』と、無声映画の趣きを感じさせる、佐野史郎の初主演作『夢見るように眠りたい』は、ともに1980年代の「伝説の映画」だ。これを映画館で観ることができること自体奇跡だが、今回、『夢見るように眠りたい』は16ミリで上映された。「御成座」でなければ体験できない企画である。「御成座」と、主催の「大山家上映会」に敬意を表したい。

 




▽予告編『夢見るように眠りたい』

 なお、上映後のトークには、1年半前に再起不能と言われる大怪我をした林海象監督も登場。映画製作にまつわる、尽きることのない裏話の数々に堪能。これも奇跡の体験か……

 

 

7月某日 『台湾-デジタルデモクラシー』2022 渡辺謙一監督 54分)

 弘前「弘前駅前ヒロロ4階ホール」。

 フランス在住、フランスや欧州のテレビ向けドキュメンタリーを製作している渡辺謙一監督が、自らのドキュメンタリー作品を持って来日して巡回自主上映する企画「渡辺謙一監督と、ともに考え、対話を開く」に参加した。弘前で上映された作品は、『台湾-デジタルデモクラシー』。監督自らパソコンを操作して映写するという、手作り感満載の上映であった。

 『台湾-デジタルデモクラシー』は、ヒマワリ学生運動から新型コロナウィルス禍までを記録して(それ以前の、たとえば白色テロの時代もしっかり押さえているが)、台湾のデモクラシーの発展を描いている。彼が「デジタルデモクラシー」という言葉を使用していることからもわかるように、オードリー・タン行政院政務委員へのインタビューが軸となっているが、台湾の政府関係者・民間人・ヒマワリ運動参加者・フランスの学者らへのインタビューでコンパクトにまとめられた作品となっている。

 上映後の監督トーク、参加者との対話も、なかなか有意義であった。

 ところで、この作品の中でも重要な事件、というより結節点として言及されている「ヒマワリ学生運動」そして「立法院占拠事件」の際、私はたまたま観光客として台北に滞在していた。私たち観光客が乗るマイクロバスの横を通って立法院に向かうデモ隊の行動を、当たり前のこととして是認する観光ガイドや市民の姿に、市民の成熟を感じたものだ。

『越境するサル』№127「旅のスケッチ~台北の想い出~」

 

 

7月某日 『スープとイデオロギー』2021 ヤン ヨンヒ監督 118分)

靑森「シネマディクト」。

 とうとう、『スープとイデオロギー』にたどり着いた……昨年(2021年)、山形国際ドキュメンタリー映画祭 インターナショナル・コンペティション部門にノミネートされた本作を、私は山形の地で観るはずだった。しかし、コロナ禍の中、映画祭はオンライン上映のみで行われることとなり、しかも、『スープとイデオロギー』はオンラインでは上映されない作品だった。

今回ようやく観ることができた『スープとイデオロギー』だが、ヤン ヨンヒ監督の過去の長編3本(うちドキュメンタリー2本)の弘前での上映には私も関わっていた。上映後のトークでの、聡明でバイタリティーあふれる監督の姿はいまだ鮮明に記憶している。

NPO harappa:harappa映画館「故郷とは、家族とは—ヤン・ヨンヒ特集」 (harappa-h.org)

npo harappa blog: 【harappa Tsu-shin 「故郷とは、家族とは」

 

その彼女の、3本の長編(『ディア・ピョンヤン』『愛しのソナ』『かぞくのくに』)で描かれ記録された両親について、どうしても納得しきれない部分があった。朝鮮総連の熱心な活動家だった両親は、「帰国事業」で3人の兄たちを北朝鮮に送るが、なぜ父と母は、「北」を信じ続けてきたのか?それは、ヤン ヨンヒ監督が感じていた疑問でもあったように私には思われた

本作は、これまでの監督作品の「家族の物語」とりわけ「母の物語」の続篇であるが、その謎解きの物語でもある。

 

▽予告編『スープとイデオロギー

1948年、18歳の母は、韓国現代史最大のタブーである島民無差別虐殺事件「済州(チェジュ).3事件」の渦中にいた。長い間封印していた記憶を語った母は、アルツハイマー病を患い、その記憶も消えかけていく。ヨンヒは、新たな家族となった夫(荒井カオル氏)とともに、母を済州島に連れていく旅を計画する。本当の母を知る旅が、はじまる

撮影から10年をかけた、魂を揺さぶるこのドキュメンタリーを、必ず弘前の地で上映する。

 

 

<後記>

  とりあえず、『越境するサル』を再開する。まだまだペースはつかめないが、徐々に「書ける」ようになっている自分がいる。

 しばらくは、映画に関する内容になる。映画館に関して、コロナ禍で生まれた空白を埋めたいという意識が強くなっているのだ。

 次号は、ケストナー『ファービアン』を原作とするドイツ映画『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』(730812「靑森シネマディクト」で上映予定)について。その次は、「harappa映画館」(910「函館発 佐藤泰志映画祭2」)について。

 コロナによって、再び行動が制限される可能性はあるが。

 



(harappaメンバーズ=成田清文)

※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、

個人通信として定期的に配信されております。