2013年9月10日火曜日

【越境するサル】特別号「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (中)」(2013.9.1発行)

「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」、2回目の配信は4と5。「<過渡期>の映画たち」と題した、1979年の映画についての叙述である。(1)で外国映画を、(2)で日本映画を扱ったが、「70年代映画史」につながる内容も目指した。


   「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (中)」

4 <過渡期>の映画たち(1)  (2007.12.3発行『越境するサル』№62)
   2007年8月から、1979年公開の映画のビデオやDVDや資料を探し出し、観る(読む)という作業を続けた。もちろんそれは「1979年の映画」のほ んのごく一部に過ぎないものだが、この作業を通じて私なりの「1979年の映画」像が少しではあるが見えてきた。当初考えていた以上に、その存在感は大き かった。むろん、私にとって。

   言うまでもないことだが、私はここで「1979年の映画」についての通史的な記述や概説を書こうとしているのではない。したがって<過渡期>というのは、 (映画を観る)私にとっての<過渡期>の映画たち、という以上の意味ではない。実際、その映画たちの中には、その後の私にとって大きな意味を持ってしまっ た作品がいくつかあったのだ。

   まず、この年に公開された作品のラインナップを見てみよう。
   2004年刊行が始まった『週刊 20世紀シネマ館』(講談社)の№48は1979年
日本公開作品を扱った号だが、そこで紹介されている主要な作品(洋画)は
『ディア・ハンター』 (1978年アメリカ、マイケル・チミノ監督)・
『チャイナ・シンドローム』(1979年アメリカ、ジェームズ・ブリッジス監督)・
『旅芸人の記録』 (1975年ギリシア、テオ・アンゲロプロス監督)・
『ビッグ・ウェンズデー』(1978年アメリカ、ジョン・ミリアス監督)・
『イノセント』(1975 年イタリア・フランス、ルキノ・ヴィスコンティ監督)・
『天国から来たチャンピオン』(1978年アメリカ、ウォーレン・ビーティ&バック・ヘンリー監 督)の6本である。
   その他に「名画グラフィティ」として
『エイリアン』(1979年アメリカ、リドリー・スコット監督)・
『スーパーマン』(1978年アメリカ、リチャー ド・ドナー監督)・
『チャンプ』(1979年アメリカ、フランコ・ゼフィレッリ監督)・
『木靴の樹』(1978年イタリア、エルマンノ・オルミ監督)・ 
『エーゲ海に捧ぐ』(1979年イタリア・日本、池田満寿夫監督)・
『リトル・ロマンス』(1979年アメリカ、ジョージ・ロイ・ヒル監督)・
『女の叫 び』(1978年ギリシア、ジュールス・ダッシン監督)・
『奇跡』(1955年デンマーク、カール・ドライエル監督)・
『インテリア』(1978年アメリ カ、ウディ・アレン監督)・
『プロビデンス』(1977年フランス、アラン・レネ監督)
の10本が小さく紹介されている。
   なお、「この年の日本映画」として『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)に1ページを割いているが、日本映画(邦画)の内容紹介はこのコーナーだけである。
   また、資料としてこの年の洋画・邦画それぞれの「キネマ旬報(以下『キネ旬』)ベストテン」も記載されているので、以下列挙する。
   <洋画> 
①『旅芸人の記録』 
②『木靴の樹』 
③『ディア・ハンター』 
④『イノセント』
⑤『インテリア』
⑥『女の叫び』 
⑦『奇跡』 
⑧『ビッグ・ウェンズデー』 
⑨『チャイナ・シンドローム』 
⑩『プロビデンス』
   <邦画> 
①『復讐するは我にあり』
②『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督) 
③『Keiko』(クロード・ガニオン監督) 
④『赫い髪の女』(神代辰 巳監督)
⑤『衝動殺人・息子よ』(木下恵介監督) 
⑥『月山』(村野鐵太郎監督)
⑦『十九歳の地図』(柳町光男監督)
⑧『もう頬づえはつかない』 (東陽一監督)
⑨『あゝ野麦峠』(山本薩夫監督)
⑩『その後の仁義なき戦い』(工藤栄一監督)
   これで、「1979年の映画」地図をいくらかイメージできるだろうか。

   実は、「1979年の映画」について、私は特別な思い入れを持っている。この年の出来事や社会情勢や文学作品の記憶に比べ、ここまで列挙してきた作品群(というよりその題名)についての記憶はかなり強く私に刻印されているのだ。それにはちょっとした理由がある。
   いま私の手元に、大事にとっておいた1冊の雑誌がある。「裏目読み」の小川徹が編集長をつとめていた隔月刊誌『映画芸術』(以下『映芸』)№332。 1980年2月発行のこの号の特集は、「’79年私が選び私が拒んだ映画」で、「辛口」の映画人や批評家たちの投票によって邦画・洋画のベスト10・ワー スト10を選考する名物企画の79年版である。
   映画館から遠く離れた町で社会人生活をスタートさせた私にとって、学生時代から親しんできた『映芸』の「ベストテン」は貴重な情報だった。観るあてもない 映画たちの題名と批評をくり返しくり返し眺めては、私はため息をつき題名を頭に刻み込んだ。これらのうち何本かとは、その後幸福な出会いを果たすことにな る。
   他の「ベストテン」とは違った作品を選ぶといわれる『映芸』の「ベストテン」も、この年は『キネ旬』とかなり似通っている。これも列挙してみる。
   <洋画> 
①『木靴の樹』 
②『旅芸人の記録』 
③『暗殺のオペラ』(1969年、ベルナルド・ベルトリッチ監督) 
④『ディア・ハンター』 
⑤『リト ル・ロマンス』 
⑥『イノセント』 
⑦『ウォリアーズ』(1979年、ウォルター・ヒル監督) 
⑧『ウェディング』(1978年、ロバート・アルトマン監 督) 
⑨『ビッグ・ウェンズディ』 
⑩『ファール・プレイ』(コリン・ヒギンズ監督)
   <邦画> 
①『十九歳の地図』 
②『赫い髪の女』 
③『太陽を盗んだ男』
④『天使のはらわた・赤い教室』(曾根中生監督) 
⑤『その後の仁義なき戦い』 
⑥『Keiko』 
⑦『復讐するは我にあり』 
⑧『もっとしなやかに もっとしたたかに』(藤田敏八監督) 
⑨『処刑遊戯』(村川透監督) 
⑩『天使の欲望』(関本郁夫監督) 
( ⑪『十八歳、海へ』(藤田敏八監督) )
   さて、これでラインナップは出そろった。

   この中で、その後の私にとって最も大切な存在となったのが『旅芸人の記録』である。この映画との出会いについては、過去に何度か書く機会があった。そのひとつを、次にそのまま紹介する。

  …1952年、ペロポネソス半島の港町エギオンの駅前広場に立つ旅芸人の一座。そのシーンにかぶさるナレーション。「52年の秋、私たちはまたエギオンにきた。昔いた者は少なかった。新しい顔がふえていた。私たちは疲れ果てていた。二日間眠っていなかった」
   『旅芸人の記録』は、1979年の8月から10月にかけて東京神田神保町「岩波ホール」で上映された。猛暑の中、長蛇の列ができたという。この232分の 大作はその後少しずつ全国で上映されるが、私は1980年11月に函館市でおこなわれた市民団体の鑑賞会で出会った。当時私は、津軽海峡を隔てた本州最北 端の町に勤務していた。函館とはフェリーボートで2時間ほどの距離であった。この出会いの後、テオ・アンゲロプロスの作品は私にとって特別な意味を持つも のとなった。まず『旅芸人の記録』の世界そのものに没入した。この映画は1952年を出発点として、1939年の同じエギオンの路上に戻る。そこから第二 次大戦、ナチス・ドイツのギリシャ全土占領、ゲリラ活動、ナチスの撤退、国民統一政府の成立、内戦、そして1952年の右翼独裁政権の成立にいたるギリ シャ現代史と一座の物語(一座の座主の名はアガメムノン、妻はクリュタイムネストラ、長女はエレクトラ、その弟はオレステス・・・ギリシャ神話の枠組みを 借りた裏切りと復讐の物語)が絡み合った壮大な叙事詩が展開されていく。その背景を調べ、映画の資料や批評を集め、もう一度出会うことを待ち望む日々。 レーザーディスクやビデオテープという形で作品を所有するまで、この熱病のような「ブーム」は続いた…(※注)

   『木靴の樹』と出会ったのも、函館市の同じ市民団体の鑑賞会である。ネオ・リアリズムの正統な継承者とも言われるエルマンノ・オルミ監督のこの大作 (187分)は、19世紀末の北イタリア農村の世界を「再現」したカンヌ映画祭グランプリ受賞作である。『旅芸人の記録』・『木靴の樹』と続けて出会った ことにより、私の中の「映画」という概念が揺さぶられたことは確かだ。これが「映画」ならば今まで観てきた「映画」は何なのだろう…極端に言えばそのよう な衝撃を受けたのだ。当時私は、その衝撃は徹底したリアリズムに対するものだと理解していた。それがどのような「リアリズム」なのか、まだ私はうまく説明 できないでいるが。
   『木靴の樹』もまた、最初「岩波ホール」(つまり「エキプ・ド・シネマ」)で上映された(79年4月~6月)作品である。さらにこの年の「ラインナップ」 としてあげた作品のうち、『奇跡』(79年2月~3月)、『プロビデンス』(79年6月~8月)、『月山』(79年10月~12月)『女の叫び』(79年 12月~80年2月)が「岩波ホール」上映作であり、1974年にスタートした日本のミニシアター運動の原点「エキプ・ド・シネマ」の力の大きさを感じさ せる。そして、そのうちの2本『旅芸人の記録』・『木靴の樹』が地方にまで進出し、私はそれに遭遇した。
  
   ところで、「エキプ・ド・シネマ」によって日本に紹介された映画たちは主にヨーロッパ映画である。それに対し、私(たち)が「今まで観てきた『映画』(洋画)」は圧倒的にアメリカ映画であった。
   私(たち)は、イタリアのネオ・リアリズムもフランスのヌーヴェル・ヴァーグも同時代としては経験していない。「名作」や「古典」として鑑賞することは あっても、ヨーロッパ映画の公開自体が話題になるという経験をしていない。私(たち)がリアルタイムで観た洋画とはアメリカ映画、それも「アメリカン・ ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群であった。
   「(アメリカン)ニュー・シネマ」は『俺たちに明日はない』(1967年、アーサー・ペン監督)から始まるとされる。1980年に出版された『70年代ア メリカン・シネマ103~もっともエキサイティングだった13年~』(ブック・シネマテーク1、フィルムアート社)の「解説」(筈見有弘)には次のように 書かれている。
   「1967年12月8日号の『タイム』誌が『俺たちに明日はない』を特集し、その見出しにニュー・シネマという言葉を使ったときが、ジャーナリスティック な意味でのニュー・シネマの登場であり、風俗的には1969年の『イージー・ライダー』、質的には翌年の『ファイブ・イージー・ピーセス』で頂点をむかえ たとするのが一般的なニューシネマのとらえ方である。」
   「ニュー・シネマ」は特定のジャンルの作品を示す用語ではない。私が映画館まで足を運んで観た映画のほとんどは、いま思えば「ニュー・シネマ」だったとい える。1967年、私は小学6年生、1968年、中学入学、1971年、高校入学、1974年、大学入学・・・『猿の惑星』(1968年、フランクリン・ J・シャフナー監督)、『真夜中のカーボーイ』(1969年、ジョン・シュレシンジャー監督)、『明日に向かって撃て』(1969年、ジョージ・ロイ・ヒ ル監督)、『M★A★S★H・マッシュ』(1970年、ロバート・アルトマン監督)、『ある愛の詩』(1970年、アーサー・ヒラー監督)、『アメリカ ン・グラフィティ』(1973年、ジョージ・ルーカス監督)、『追憶』(1973年、シドニー・ポラック監督)、『スティング』(1973年、ジョージ・ ロイ・ヒル監督)、『アリスの恋』(1975年、マーティン・スコセッシ監督)、『カッコーの巣の上で』(1975年、ミロス・フォアマン監督)、『タク シー・ドライバー』(1976年、マーティン・スコセッシ監督)、必ずしもリアルタイムで観たものばかりではないが、記憶に残っている洋画たちを羅列して みると、そのまま「アメリカン・ニュー・シネマ」の系譜となる。
   1970年代末のアメリカ映画たちはその最後の輝きである、とするのはあまりに安易な図式だろうか…
  
   再び、1979年日本公開の映画に戻る。4本のアメリカ映画、『ディア・ハンター』・『天国から来たチャンピオン』・『インテリア』・『チャイナ・シンドローム』について取り上げてみたい。

   『ディア・ハンター』は「ヴェトナムもの」である。しかし「反戦」のメッセージをかかげた映画ではない。また、もちろん「戦争賛美」の映画でもない。マイ ケル・チミノ監督の言葉を借りれば、「ごく平凡に生きてきた若者たちが戦争という危機にどう対処したか」を描いた映画である。
   舞台は、スラブ系移民の鉄鋼町ペンシルバニア州クレアトン。この町の鉄鋼所に勤める仲間の若者5人のうち、マイケル、ニック、スティーヴンの3人が徴兵で ヴェトナムに行くことが決まっている。彼ら3人の歓送会も兼ねたスティーヴンの結婚式のシーンが序盤の山場だ。ロシア正教会での賑やかな式典、民族舞踊・ 音楽、若者たちの愚行、そしてヴェトナム出発前最後の「鹿狩り」。マイケル(ロバート・デ・ニーロ)は一発で獲物をしとめた。
   すさまじい戦火のヴェトナム。敵の捕虜となった3人は「死のゲーム」、ロシアンルーレットの拷問を受ける。極限状況の中で、なおも助け合おうとする3人。やっと脱出に成功した3人だが、もう彼らは昔の彼らではなかった…
   スラブ人共同体、戦争の現実、戦争後の復員兵の心理、これらが3時間にわたって丹念に描かれたこの作品は、78年アカデミー作品賞・監督賞他を受賞。北 ヴェトナムによる「ロシアンルーレット」の拷問シーンに対する抗議の声(授賞阻止行動へとつながっていく)も多かった問題作である。
   この後マイケル・チミノ監督は1980年、西部開拓史上に起こった東欧系移民大虐殺事件をもとにした『天国の門』を巨額の制作費を投じて完成させるが、全 くヒットせず、制作会社は倒産、彼はハリウッドを一時追放される。ようやく復活したのは、1985年、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』によってである。
  
   ウォーレン・ビーティ&バック・ヘンリー監督(ビーティは製作・脚本・主演も)の『天国から来たチャンピオン』は「ファンタジー」としか呼びようのない映 画である。事故で死にかけたフットボール選手が、天国の手違いにより肉体を火葬されてしまい、別の肉体(最初は富豪、次にフットボールの元同僚)を借りて 活躍し、恋愛する…戦前の映画のリメイク版だが大ヒット作となった。
   ビーティ(現在はベイティと表記される)は、『俺たちに明日はない』の製作・出演により「ニュー・シネマ」を誕生させた映画人であるが、この後1981 年、ロシア革命のルポルタージュ『世界をゆるがした十日間』の著者ジョン・リードの生涯を描いた大作『レッズ』(監督・製作・脚本・主演すべて ビーティ)でアカデミー監督賞を受賞する。

   ウディ・アレン監督『インテリア』は、冷たく静かなタッチで家族の崩壊(そしておそらくは恢復)を描いた作品だが、登場人物それぞれの「内面」の激しさは その落ち着いた画面からも伝わってくる。インゲマール・ベルイマンに傾倒していたウディ・アレンが、尊敬するスウェーデンの巨匠に捧げた映画であり、この ような作品も作れるということを示した一作である。  
   ウディ・アレンはこの前作『アニー・ホール』(1977年)において、それまでのドタバタ調・ナンセンス・ジョークの洪水の作風から、神経過敏で饒舌でい つも愛に飢えている主人公のキャラクターを継承しながらもよりシリアスな作風へと方向転換をとげた、とされる。ニューヨークに住むユダヤ系アメリカ人(ウ ディ・アレン自身の投影であり演ずるのも彼)の愛の顛末を描いた『アニー・ホール』は高い評価を受け、アカデミー監督賞・脚本賞を受賞(なお主演女優賞が 共演のダイアン・キートン)した。 さらに次作『マンハッタン』(1979年)においても、再びニューヨークを舞台に愛と仕事に生きる(その生き方は自己に忠実でかつ不器用だ)主人公に自ら 扮し高い評価を受けている。

   マイケル・ダグラス製作(ジェームズ・ブリッジス監督)の『チャイナ・シンドローム』は、原子力発電所事故の恐怖を描いた映画である。この映画では大事故 は回避されるのであるが、1979年3月16日アメリカ公開の12日後、3月28日にペンシルヴェニア州スリーマイル島の原発で炉心の一部が溶解するとい う事故が発生し、原発事故を「予言」した映画として反響を呼んだ。
   チャイナ・シンドロームとは、アメリカの原発に事故が起こり原子炉底部を溶かしてしまうと理論的には溶融物が地球の裏側の中国にまで達する、という意味で あるが、半ばサスペンスであるこの映画からその恐怖は伝わってくる。だが、現在の時点でこの映画を観ると(高校の授業で生徒たちと一緒に鑑賞したのだ が)、組織の中で人はどのように生きられるのかというテーマの方が浮かび上がってくる。原発を取材するテレビ局キャスターのキンバリー(ジェーン・フォン ダ)、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)、内部告発に踏み切る原子力発電所制御室長ゴデル(ジャック・レモン)、彼らは皆、結果として組織に 抗して闘ってしまった人間たちだ…
  
   さて、実は私はこの4本をつい最近まで観ていなかった。それぞれの作品に対して長い間、観なければという思いを抱いていたにもかかわらず。
   「壮大な失敗作(興行的に)」であるからこそ逆に入れ込んだマイケル・チミノ『天国の門』(1980年)に先立つ作品としての『ディア・ハンター』、何度 もくり返し観たお気に入り作『レッズ』(1981年)に先立つ作品としての『天国から来たチャンピオン』、しゃれた傑作と感じたウディ・アレン『カイロの 紫のバラ』(1985年)に先立つ作品としての『インテリア』(さらに『アニー・ホール』と『マンハッタン』)、そして反原発運動のルーツとしての『チャ イナ・シンドローム』。今回、70年代アメリカ映画(それをそのまま「ニュー・シネマ」と呼んでいいかは依然不確かだが)の最後を飾る作品群としてこれら の作品にふれてみたが、もっと早く出会うべきだったという思いを強くした。それは、一部の映画を除いてアメリカ映画に興味を示さなかった自分への、後悔の 念なのかもしれない。

   続く1980年代、私はヨーロッパ映画に急速に傾斜していく。数少ない映画館での鑑賞機会も当然ヨーロッパ映画に充てられ、やがてその他の地域(とりわけ中国)の映画に目を開かれていく。それはちょうど「ミニシアター」が市民権を得ていく過程と符合するはずだ。

(※注)
   『越境するサル』№34「テオ・アンゲロプロス、長い旅」(2005年10月30日発行)より。                           

5 <過渡期>の映画たち(2)  (2008.3.4発行『越境するサル』№66)

    「<過渡期>の映画たち(1)」で、1979年公開の主に外国映画についての記述を試みた。その年の日本映画もまた、後になってその重要さを認識した作 品も含めて、私にとって大きな意味を持っていた。いま、その作品群を見て改めてそう思う。(なお、文中『キネ旬』は『キネマ旬報』ベストテンの順位、『映 芸』は『映画芸術』ベストテンの順位。)

   1979年(昭和54年)を代表する日本映画として、必ず取り上げられるのが今村昌平監督の『復讐するは我にあり』である。1963年に起きた殺人事件を 追った佐木隆三のノンフィクションを映画化したものだが、詐欺と殺人を続ける主人公(緒形拳)の不可解な心理を丹念に探求した傑作として高い評価を得てい る。何よりも緒形を始め出演した俳優たち(三國連太郎・倍賞美津子・小川真由美・清川虹子・ミヤコ蝶々他)の演技が素晴らしく、この年の『キネ旬』第1位 を獲得した(『映芸』第7位)。
   緒形扮する主人公榎津巌は、カトリック信者で漁師の親方である父(三國連太郎、のち一家で温泉旅館経営)に対する反発から非行化し、少年院と刑務所に出た り入ったりの生活を送る。戦後結婚するが、詐欺の常習犯として刑務所に出入りし、その間父と妻(倍賞美津子)の関係を疑いますます父に対する反発を強めて いく。やがて彼は強盗殺人犯となり、詐欺と殺人をくり返しながら逃亡の旅を続けるが、その時潜伏していた宿屋の女主人(小川真由美)とその母親(清川虹 子)との日々が映画の中でかなりの比重を占める。彼女らと榎津の、そして妻・父と母(ミヤコ蝶々)の微妙な心理の描写と、彼の大胆な詐欺と殺人の描写が重 く心に残る作品である。
   川島雄三の助監督を経て1958年監督デビューした今村は、『豚と軍艦』(1960年)・『にっぽん昆虫記』(1963年)などで名匠としての評価を確立 するが、1968年の『神々の深き欲望』以来11年間長編劇映画を発表していなかった。この久々の監督作品以降10年間で今村は、『ええじゃないか』 (1981年)・『楢山節考』(1983年)・『女衒 ZEGEN』(1987年)・『黒い雨』(1989年)とカンヌ映画祭出品作を含む話題作を発表し続ける。
   私がリアルタイムで体験したのは『ええじゃないか』・『楢山節考』の2本だけである。だが、川島雄三から今村という流れを追いながら(今村は何本かの川 島作品の共同脚本に名を連ねている)、今村昌平の存在が私の中で日に日に大きくなっていくのを感じる。日本映画学校(1985年創立。前身の横浜放送映画 専門学院は1975年創立。1979年はその間の時期にあたる。)の創立者・校長として、その後の映画・テレビ界に多くの人材を送り出したことと合わせ て、私がこれから日本映画について考えていく際の重要な軸となっていくことだろう。

   『太陽を盗んだ男』(キティ・フィルム、東宝配給、1979年『キネ旬』第2位、『映芸』第3位)の長谷川和彦監督は、今村昌平の弟子にあたる。1968 年、今村の『神々の深き欲望』の制作スタッフ公募で今村プロに入社。その後1971年、日活契約助監督となり、藤田敏八・神代辰巳・西村昭五郎らの作品に つきながらシナリオを書き、1976年、『青春の殺人者』(今村昌平プロデュース、ATG製作・配給)で監督デビューを果たした。『青春の殺人者』は、 1969年千葉県で実際に起きた事件をもとに書かれた、中上健次の短編小説『蛇淫』を原作としたものである。なりゆきから両親を殺してしまった青年(水谷 豊)とその恋人(原田美枝子)の姿を醒めた眼で描いたこの作品は、1976年の『キネ旬』第1位を始め、多くの賞を独占した。
   『太陽を盗んだ男』は掛け値なしで楽しめるアクション映画、エンターテインメント作品である。沢田研二演ずる中学理科教師がアパートで原爆を製造し、国家 を相手にナイター巨人戦の放送延長やローリング・ストーンズの日本公演許可を要求する。この奇想天外なアイデアと国会議事堂前や皇居前でのロケ、沢田と彼 を追いかける警部役の菅原文太の対決等、見所満載で、私にとって最も楽しめた日本映画のひとつであり、映画人による評価も高い。しかし、興行成績はなぜか ふるわなかった。
   その後現在に至るまで、彼の映画監督作品はない。3作目として、連合赤軍を題材にした映画が構想されていたが、中断されたままだ。なお、1982年、自ら と大森一樹、相米慎二、高橋伴明、根岸吉太郎、池田敏春、井筒和幸、黒沢清、石井聰互、計9人の若手監督による企画・制作会社「ディレクターズ・カンパ ニー」を設立し、代表取締役・プロデューサーとして活躍した。
  
   70年代を代表する映画監督藤田敏八はこの年、『もっとしなやかに もっとしたたかに』(『キネ旬』第11位、『映芸』第8位)・『十八歳、海へ』(『キネ旬』第18位、『映芸』第11位)・『天使を誘惑』の3本を監督作品として発表する。
   1967年、『非行少年 陽の出の叫び』で日活から監督デビューした藤田は、「非行少年」シリーズ・「野良猫ロック」シリーズに続いて、1971年、『八月の濡れた砂』を発表。藤 田の代表作であるこの作品は、ロマンポルノに移行する日活旧体制の最後の作品となった。その後、ロマンポルノ作品『エロスは甘き香り』(1973年)、桃 井かおり・原田芳雄主演の『赤い鳥逃げた?』(1973年)、秋吉久美子主演3部作『赤ちょうちん』・『妹』・『バージンブルース』(3本とも1974 年)を経て、前年1978年には『危険な関係』、永島敏行主演の『帰らざる日々』を発表していた。
   『もっとしなやかに もっとしたたかに』は、奥田瑛二と森下愛子を主役にすえ、高沢順子・風間杜夫・加藤嘉らで脇を固めたロマンポルノ作品である。奥田が演ずる主人公は妻(高 沢)に家出され、息子を姉に預けて妻の行方を捜しているが、ロックバンドのグルーピー同士のいざこざで危機に陥っていた少女(森下)を助け、やがて奇妙な 同棲生活に入る…「家族の崩壊」をめぐる佳作であり、役者たちの存在感も充分に感じられる作品である。
   『十八歳、海へ』は、予備校で知り合ったふたりの若者(永島敏行と森下愛子)の「心中ごっこ」の顛末と、その上の世代(小林薫と島村佳江)の出会いのドラ マ、このふたつを並行させ進行する作品である(こちらは一般作)。出口のない状況を描きながら、わずかに希望がほの見える。原作は中上健次。
   2本ともある種の感情移入が可能な青春(およびその続きの)ドラマだが、今回DVDでじっくり鑑賞してみて、それまでの藤田敏八作品のようなギラギラした 切迫感のようなものが薄くなっているように感じた(とりわけ『十八歳、海へ』)。これ以後の藤田作品はどのように変容していったのだろうか…

   さて、1979年の日本映画で、私がほぼリアルタイムで観ることができたのは次の5本である(地方の、しかも映画館のない町で暮らしていた私の場合、「ほぼリアルタイム」はかなりの幅を持つことを許してほしい)。
   前述の『太陽を盗んだ男』、『赫い髪の女』(神代辰巳監督、『キネ旬』第4位、『映芸』第2位)、『十九歳の地図』(柳町光男監督、『キネ旬』第7位、 『映芸』第1位)、『Keiko』(クロード・ガニオン監督、『キネ旬』第3位、『映芸』第6位)、『もう頬づえはつかない』(東陽一監督、『キネ旬』第 8位)。  
   『赫い髪の女』は、70年代日活ロマンポルノのエース的存在であり、『青春の蹉跌』(1974年)や『アフリカの光』(1975年)などの一般映画でも評 価の高かった神代監督が、中上健次の小説『赫髪』を映画化したもの(脚本は荒井晴彦)。ダンプカー運転手の主人公(石橋蓮司)と道で拾った女(宮下順子) の、閉塞した街(と人間関係)の中での生活が描かれる。
   『十九歳の地図』は、当時日本最大の暴走族であったブラックエンペラーを追ったドキュメンタリー『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』(1976年)で評判を呼んだ、柳町監督の第2作である。原作は中上健次の同名小説。主人公は、地方から上京し新聞配達をしながら予備校 に通っている19歳の青年(本間優二)。彼の孤独と哀しみ(それは、配達区域の家庭や周囲の人間たちへの怒りや憎しみという形で表される)が伝わってくる 秀作だった。蟹江敬三・沖山秀子・山谷初男といった個性派が脇を固めている。
   『Keiko』は、京都在住のカナダ人クロード・ガ二オンが監督・脚本をつとめた不思議な作品である。女子大を卒業し、社会人としての生活を送るケイコの 日常・恋愛・結婚か淡々と描かれていくが、ほとんど素人を使ったようなその映像は劇映画というよりドキュメンタリーであり、妙に生々しい印象を観客に与え る。
   『もう頬づえはつかない』は、見延典子の同名小説を映画化したATG作品。桃井かおり演ずる主人公の大学生が、自分勝手なふたりの男との関係に決着をつ け、ひとりで生きていこうと決意する内容である。ふたりの男を演ずるのは奥田瑛二と森本レオで、映画は明らかに世代論としてこのふたりを描いている(森本 が全共闘世代)。『やさしいにっぽん人』(1971年)でドキュメンタリーから劇映画に進出した東監督は、1978年、永島敏行と森下愛子を主役に抜擢し たATG作品『サード』(軒上泊原作、寺山修司脚色)で映画賞を独占していた。この後80年代、数々の女性映画を手がける。

   まだまだ、書かれなければならないことがある。
   この年、村川透監督の『処刑遊戯』(『キネ旬』第34位、『映芸』第9位)が公開される。松田優作を起用したアクション『最も危険な遊戯』から始まる「遊戯」シリーズの作品である。
   日活ロマンポルノ作品『天使のはらわた 赤い教室』(曾根中生監督、『キネ旬』第13位、『映芸』第4位)が公開されたのもこの年だ。『天使のはらわた』は、圧倒的な人気を誇っていた石井隆の劇 画を映画化したものであり、この劇画シリーズの主役の名は男は村木、女は名美で統一されている。それぞれが全く別の物語でありながら同じ名を持つ登場人物 たち、複数の村木と名美の物語。この映画化以降、映画の方もシリーズ化され、やがて原作者石井隆自身が監督として登場する。
   そして忘れてはならないのが、宮崎駿監督の長編アニメ第1作『ルパン三世 カリオストロの城』が公開されたことである。のちに高く評価されたこの作品も、1979年時点ではまだ正当に評価されていない(興行的にも数字を残してい ない)。宮崎監督がカリスマ的な人気と名声を手に入れるのは、もっと先、『風の谷のナウシカ』(1984年)からである…

   ここまで私は1979年の映画について語ってきたが、実は1970年代の映画全体に対する自らの憧憬を確かめているのではないか、そういう気がしてきた。 出会ったもの、出会いそこなったもの、どちらに対しても私が抱いているある種の感傷、その核(コア)に向かっていくための切り口としてのみ「1979年」 は設定されたかのようだ。
   語ることによって、書くことによって、少しずつ鮮明になってゆくものがある。70年代、自分の興味の対象が何だったのか、何を求めて私は映画を観ていたのか、さらに、いま、70年代の映画に私は何を視ようとしているのか。
   今回、最初から意識的にその系譜をたどろうとしたのは、川島雄三から今村昌平そして長谷川和彦という流れ(さらに長谷川の助監督が相米慎二なのだが)である。だが、そういう現在の関心とはもちろん無関係に、「私の70年代映画」はあった。  
   「私の70年代映画」と言った時、第一にあげなければならないのはATG映画の存在だろう。あるいはATG映画への憧れと言ってもいい。いくつかの幸運 がなければ作品との出会い自体がありえないという事情(もちろん地方の映画館事情のことだ)にもかかわらず、何本かのATG映画と遭遇し、そのうちのいく つかはビデオでくり返しくり返し観た。たとえば『祭りの準備』(1975年、黒木和雄監督)・『青春の殺人者』(1976年、長谷川和彦監督)・『サー ド』(1978年、東陽一監督)・『曽根崎心中』(1978年、増村保造監督)などである。
   ATG(日本アートシアターギルド)は、1962年、芸術映画専門の上映チェーンとして発足し、地味な(芸術的な)外国映画作品を主に上映していたが、大 手の配給網にのりそうもない日本映画の上映も行っていた。このATGが1967年、1千万円という予算(ATGと製作プロダクションが折半)をたてATG での上映を予定しての映画作りを始めた。この方式の最初の作品が『人間蒸発』(1967年、今村昌平監督)であり、この方式によってつくられた作品を 「ATG映画」と呼ぶ。
   私が出会ったATG映画は、初期の実験的な作品群とは異なり、ある意味オーソドックスな秀作たちである。その時には出会えなかった実験的な作品たちとは、その後少しずつ(現在に至るまで)出会い続けている。
   さらに、魅力的な俳優たちの存在も「私の70年代映画」を彩る。萩原健一、原田芳雄、江藤潤、永島敏行、奥田瑛二、桃井かおり、秋吉久美子、原田美枝子、森下愛子、緑魔子…
   最後に付け加えれば、原作者としての中上健次の影も「私の70年代映画」において特徴的なことだ。ここまでの記述で登場してきた中上健次原作の映画化作品 は、『青春の殺人者』・『赫い髪の女』・『十八歳、海へ』・『十九歳の地図』の4本。私が本気で中上健次を読もうとしたのは1979年から10年以上も後 のことだが、原作者としての中上はずっと前から刷り込まれていたわけである。

   こうして私は、80年代映画に向かう入口にたどり着こうとしているが、一方で70年代(さらには60年代・50年代)へ遡ろうとしている自分にも気がつい た。<過渡期>と題したのは単なる思いつき以上のものではなかった(そもそも、私にとっての過渡期という意味であった)が、設定してみれば、あながち的外 れでもない…
                                       
<後記>
  次回は「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」3回目の配信。「6 大江健三郎の70年代」、「7 土本、中野重治の葬儀を撮る」、「8 とりあえずの『まとめ』として」の3編。これで今回の特別号は最後となる。


harappaメンバーズ=成田清文)
※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田清文さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。

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