「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」、3回目の配信は6と7と「まとめ」。大江健三郎・中野重治・土本典昭への言及は、『越境するサル』のスタートから続いているテーマだ。彼らの「1979年」を語った後、「1979年へ」シリーズは中断している…
「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ (下)」
6 大江健三郎の70年代 (2008.11.3発行『越境するサル』№72)
2008年4月以降、1979年の『同時代ゲーム』に至る70年代の大江作品を集中して読んでみた。『沖縄ノート』を含めたこの<大江体験>によって、1970年から現在に至る大江の軌跡が、自分の中でひとつにつながったように感じた。
1979年、大江健三郎は書き下ろし長編小説『同時代ゲーム』(新潮社)を発表する。神話学や文化人類学などに対する著者の関心が作品化された本作は、現在に至るまで大江の作品世界の骨格をなす「村=国家=小宇宙」(以下「村」とする)が本格的に創造された画期的作品である。
『同時代ゲーム』の主人公「僕」は、四国のある村の神主の息子である。彼は生まれる前から「村」の神話と歴史を書くことが決められており、彼の双子の妹もまた生まれる前から創建者「壊す人」の巫女となることが決められていた。紆余曲折の末、「僕」は「村」の歴史と創建の神話を妹に宛てた手紙という形式で書くことを決意する。こうして、6つの手紙で構成された壮大なスケールの「偽史」が叙述されていく。
幕藩体制下、四国の小藩から追放された人々が「壊す人」に率いられ海から川を遡って切り拓いた新天地。そこで彼らは農耕を始め、「壊す人」は巨大化して百年生きるが、やがて人々に暗殺される。しかし彼は再生と死を繰り返し、やがて大日本帝国との五十日間戦争を指揮する…この時空を超えた物語と兄妹の物語が錯綜しながら、『同時代ゲーム』はひとまず結末へ向かっていく。
ところで、私が『同時代ゲーム』を読むきっかけとなったのは、蓮實重彦の著書『小説から遠く離れて』(1989年)との出会いである。
蓮實はこの評論の中で、『同時代ゲーム』の他に村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982年)・井上ひさし『吉里吉里人』(1981年)・村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)・石川淳『狂風記』(1980年)・丸谷才一『裏声で歌へ君が代』(1982年)・中上健次『枯木灘』(1977年)を取り上げて分析し、これらの長編小説たちの次のような類似を指摘する。「双子」(もちろん「双子的」という意味だ)が黒幕的人物から「依頼」され「宝探し」を「代行」する。これがこの一群の「物語」の基本パターンである。
この評論に導かれるように、私はこれらの長編小説群を読み始めた。中でも『同時代ゲーム』の読後の昂揚感は圧倒的であり、以後長編小説に対する抵抗感が薄らいだという意味でも忘れられない作品である。また、私の大江への関心の原点ともなっている。
ここで、『同時代ゲーム』に至る1970年代の大江の小説作品をひとつひとつ見ていきたい。
1971年、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(『群像』10月号)と「死滅する鯨の代理人」(『新潮』11月号、のち「月の男」)の2本の中篇をに発表。この2篇は翌1972年、単行本『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(講談社)して出版される。
その冒頭の序文「二つの中篇をむすぶ作家のノート」には『セブンティーン』第二部「政治少年死す」(1961年)末尾の詩の一節<純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する>が引用され、この2篇が「純粋天皇」のテーゼをめぐる作品であることが示されている。それは、1970年11月25日の三島由紀夫割腹自殺を明らかに意識していると、読者に思わせるものだ。
「みずから我が涙をぬぐいたまう日」の主人公は、自分を肝臓癌だと信じ死を予感する男。彼は自分の生涯を妻(文中では「遺言代執行人」や「看護婦」と呼ばれる)に口述筆記させている。その内容は、彼の父が敗戦直後に徹底抗戦を企てる軍人らの指導者として決起し、市街戦で殺されてしまった記憶が中心となっている。作中、涙をぬぐってくれる「あの人」すなわち天皇と父が一体化し、「誤読」されやすい難解な作品とされる。
「月の男(ムーン・マン)」は、NASA有人宇宙基地から脱走した「ムーン・マン」とその同棲相手の「女流詩人」さらには「活動家」や「鯨学者」たちと主人公の「僕」とのドタバタ劇のような交流を描いた作品。アポロ11号打ち上げ、反捕鯨やエコロジカルな運動などが描かれているが、そこに「あの人」(つまり天皇=父)をめぐるテーマを絡ませている。
2篇の刊行は、天皇制と三島由紀夫事件を主題としていくことの宣言であり、三島の『憂国』(1961年)や『英霊の声』(1966年)と対になるべきものであると私には思われた(※注1)。
1973年、書き下ろし長編小説『洪水はわが魂に及び』(新潮社)発表。
主人公は、鉄筋コンクリート3階建の核シェルターに住む大木勇魚と5歳の息子ジン。勇魚は樹木や鯨の魂に呼びかける彼らの「代理人」を自任し、ジンは障害を持つ子供だが50種類の鳥の声を識別する耳の持ち主である。
このふたりの生活に、近所の映画撮影所跡に住む「自由航海団」の若者たち(当初は不良少年たちのように描かれる)が入り込む。彼らと接するうちに、勇魚も「自由航海団」(大災害に備え海に逃げるための船を準備している)に「言葉の専門家」として加わり、やがて内部の殺人事件から国家権力に追及され核シェルターに立てこもった彼らと運命を共にし、包囲する機動隊の放水と鉄球の攻撃を受ける。
リーダーの喬木、少年たち、「ドクター」、裏切り者として殺されるカメラマン「縮む男」、ジンの養育係をつとめる野性的で母性的な少女伊奈子・・・彼らの個性の描写と物語のテンポは、大江作品の中では例外的といえるほど生き生きとしたものだ。自分を滅ぼし、息子のジンを含めた何人かの者を生きのびさせる勇魚の姿に、「終末」に向けた大江の祈りのようなものが伝わってくる。
なお、この小説の執筆の過程で「連合赤軍内部リンチ事件」が起こったため、「連合赤軍」を先取りした内容(手を入れざるをえなくなった)が注目された(※注2)。
1976年、長編小説『ピンチランナー調書』を雑誌(『新潮』8~10月号)に連載。
主人公は、放射能被曝者で元原子力発電所技師「森・父」と頭蓋骨の欠損をプラスチックで覆っている息子「森」。この「森・父」に依頼された作家の「僕」は、彼らの新しい冒険を「ゴースト・ライター」として記録し続ける。
「森・父」は、10年前に再処理工場から核物質をトラック移送している途中「ブリキマン」たちに襲撃され、その際こぼれた液体によって被曝した。その後生まれた息子「森」と「森・父」は新しい冒険の中で年齢が「転換」する。さらに革命集団「ヤマメ軍団」の登場、反原発の集会、敵対党派のなぐりこみ、原爆私有をねらう「大物A氏」と 「森・父」の確執等々、荒唐無稽な展開の中に、障害を持つ子と父の一体化や革命党派同士の憎悪など奇妙なリアリティを感じさせる小説である。
さて、こうして大江は1979年の 『同時代ゲーム』にたどり着く。
見てきたように、70年代における大江の格闘の対象は「三島」であり「天皇」であり、さらに本人の意図かどうかはともかく「連合赤軍」であり革命党派同士の「内ゲバ」であった。それに、障害を持つ子との「共生」というテーマが絡み合い、現在に至る大江の文学の骨格が出来上がっていく。その過程を私(たち)は大江の70年代に見る。そしてその物語(『同時代ゲーム』の物語も含めて)は、何度も何度もくり返される。
このあと私(たち)は、「村=国家=小宇宙」作品群の頂点(かつ大江文学の到達点)ともいうべき『懐かしい年への手紙』(1987年)に向かって、彼の足跡を追うべきだろう。
(※注1)
『新潮』2008年8月号に掲載された小林敏明「想像される<父>とその想像的殺害ー大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』を再読する」は、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(以下『みずから…』と略記)を丹念に分析した秀逸な評論である。
小林敏明はこの中で、『みずから…』が三島由紀夫と大江健三郎の「天皇」をめぐる真摯な格闘の末の作品であり、大江の最新三部作にいたるまですえられている、回帰していかざるをえない原点的モティーフであるとしている。そして『みずから…』が単なる三島批判の作品ではなく、二人が政治的立場を異にしながらもきわめて接近した部分を持っていたことを明らかにしている。
(※注2)。
2008年7月、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)を観た(「盛岡フォーラム」)。『洪水はわが魂に及び』(以下、『洪水は…』と略記)を読んだのが4月から5月だったので、映画を観ながらどうしてもこの小説のストーリー・構成との相似が気になった。もちろん、「事件」そのものが閉鎖的な集団が行き着く結末を典型的に示している、ことがこれらの類似の原因である。「事件」を「実録」として丹念に映像化した若松作品は、『洪水は…』とともに「連赤」をめぐる重要な「批評」であるといえるだろう。
7 土本、中野重治の葬儀を撮る (2010.7.24発行『越境するサル』№89)
2008年に亡くなったドキュメンタリー映画監督土本典昭は、1979年、『偲ぶ・中野重治ー葬儀・告別式の記録ー1979年9月8日』(以下、『偲ぶ・中野重治』)という作品を製作している。長い間、上映会等で出会いたいものだと考えていたが、なかなかその機会は訪れなかった。
2010年に入って思い切ってDVDを購入し、早速鑑賞した。土本典昭と中野重治、それぞれの作品に影響を受けている私にとって、大きな意味を持つ体験であった。しかも「1979年」である。
『偲ぶ・中野重治』は、1974年、神山茂夫の告別式における中野の弔辞のシーンから始まる。その中で中野は、「史実偽造、事実の抹殺に対して、いろいろな事を記録に残してほしい」と訴える。そして音楽(ゲオルグ・ザンフィル「パン・パイプ」)をバックに、中野の経歴と作品歴が示される…
1979年9月8日、東京青山葬儀場。壇上に置かれた遺骨、遺影、「中野重治全集」。小田切秀雄が司会をつとめ、8人の弔辞が続く。 山本健吉、国分一太郎、尾崎一雄、石堂清倫、臼井吉見、桑原武夫、宇野重吉、本多秋五。
「中野は羞恥心を持ち合わせていた」と語る山本、「本来来てよいはずの人が告別式に来ない」と語る国分、「立場の違いから批判されたが、近年病床の自分を見舞ってくれた」と語る尾崎、こみ上げる悲しみに弔辞を中断し中野の19歳のときの句を詠む石堂、「中野は、上質の人間的なものに対する心からの感動と、下等で非人間的なものに対する本能的な憎しみを持ち合わせた人だった」と語る臼井、「中野は、誠実と心のあたたかさ、戦う意志が渾然一体となった人物」と語る桑原、選挙の手伝いをした頃の想い出を語る宇野、「晩年は親鸞のようだった」と語る本多。
友人総代・佐多稲子による病状経過報告、喪主原泉の挨拶。ふたりはずっと手を握り合っている。
献げられたほおずきの実、朗読「雨の降る品川駅」、会葬者の群れ、さらに中野自身の朗読「わたしは嘆かずにはいられない」、故郷・丸岡町の墓所・・・映画はここで終了する。55分。
戦後日本共産党の文化部門の「顔」であり、「新日本文学会」のリーダーであった中野重治の晩年は、自らがその人生の大部分を献げた日本共産党からの除名という事件に大きく規定された。
除名処分に対する異議申し立てと党に対する批判的論説・行動、それが除名された1964年以降の中野の日々のほとんどすべてである。もちろん「全集」という形での文学的達成も、晩年の日々になされたのではあるが…
『中野重治全集』(筑摩書房、全28巻)別巻「年譜」を頼りに、中野の略歴を追いかけてみる。
1902(明治35)年福井県に生まれた中野は、金沢の旧制四高を経て22歳で東京帝国大学に入学(文学部独逸文学科)、同人誌を中心に詩作を続ける。その一方「新人会」でマルクス主義を学び、日本プロレタリア芸術聯盟・全日本無産者芸術聯盟に参加、『戦旗』の創刊・編集にも関わる。
1928(昭和3)年以降何度か逮捕される(この間、原泉と結婚、1931年には日本共産党入党)が、1934(昭和9)年「転向」して出獄、以後敗戦まで当局の監視を受ける。
1945(昭和20)年、日本共産党に再入党。以後、「アカハタ」文化部長、参議院議員、「新日本文学会」書記長と表舞台で活躍するが、所感派と国際派に党内が分裂した1950(昭和25)年のいわゆる「五〇年問題」(中野は国際派に属した)以降離党に至るまで、党内問題ではつねに非主流派的な立場に追いやられた。
1964(昭和39)年、日本共産党は部分的核実験停止条約に反対する党の決定に従わないことを理由に神山茂夫・中野重治の除名を決議。両名はこの決定を不当として共同声明を発表。その後両名は「日本共産党(日本のこえ)」の結成に関わる。
その間の党との軋轢を描いたのが、1964年から1969(昭和44)年にかけて書かれた長編小説『甲乙丙丁』である(※注)。
その他の代表作として、『中野重治詩集』(1931年)、『歌のわかれ』(1940年)、『むらぎも』(1954年)、『梨の花』(1959年)がある。
さて、ここまで記してきた中野重治の人生と、ドキュメンタリー映画作家土本典昭の人生がどこで交錯するのか。中野が、土本の水俣についての映画を高く評価していたことはたしかだ。だが、土本が中野を記録しようとしたのは何故か。このことを私なりに解明(というより納得)しようというのが、今回の通信の目論見である。
土本典昭・石黒健治共著『ドキュメンタリーの海へー記録映画作家・土本典昭との対話ー』(2008年、現代書館)巻末の「年譜」を頼りに土本の略歴を追いかけてみる。
1928(昭和3)年岐阜県に生まれた土本は、1946(昭和21)年早稲田大学専門部法科に入学(3年後、第一文学部史学科に再入学)、1947(昭和22)年「二・一スト」後に日本共産党に入党、全日本学生自治会総連合(全学連・武井昭夫委員長)の活動家として活躍する(全学連副委員長、財政・機関紙担当)。
1950(昭和25)年、コミンフォルム批判を受けて日本共産党が所感派と国際派に分裂した際は国際派に属した。そのため、翌年の国際派追放の流れの中で、武井委員長とともに副委員長の地位を追われる。
1952(昭和27)年、早稲田大学除籍。「山村工作隊隊員」として東京・小河内村へ行くが、小河内事件で逮捕、以後3年間裁判闘争を続ける(日本共産党党籍離脱は1957年)。
1956(昭和31)年、岩波映画製作所に臨時雇員として入社。翌年退社するが、以後フリーランスの立場で同社で記録映画(TVとPR映画)の演出を続けるとともに、羽仁進監督のスタッフとして働く。
1963(昭和38)年、長編ドキュメンタリー第1作『ある機関助士』、翌年第2作『ドキュメント路上』発表。60年代はその後、『留学生チュアスイリン』(1965年)、『シベリヤ人の世界』(1968年)、『パルチザン前史』(1969年)と続く。
70年代は、土本の代名詞となった「水俣」と関わり合った10年間と言うべきだろう。1970年撮影に入り、1971(昭和46)年、『水俣ー患者さんとその世界ー』発表。この作品を携えて3ヶ月、ヨーロッパを上映行脚。
以後、『水俣レポート1 実録 公調委』(1973年)・『水俣一揆ー一生を問う人びとー』(1973年)・『医学としての水俣病ー三部作ー』(1974年)・『不知火海』(1975年)と大作・秀作を作り続け、『わが街わが青春ー石川さゆり水俣熱唱ー』(1978年)に至る。
そして1979年、天草をロケハンしている途上、土本は中野の訃報をテレビで知る。葬儀の日に間に合うことがわかった土本は「有志の会」を急遽結成し、仲間の映画人と連絡をとる。こうして中野の葬儀は撮影された…
ここまでふたりの略歴を追いかけてきたが、こうして表に出ている人生を比較しただけでもいくつかの接点があることがわかる。
戦前の弾圧で「転向」を選択したが、時代の制約の中その後も書き続け、戦後は日本共産党に再入党しオピニオンリーダーとなる中野。戦後日本共産党に入党し、全学連の活動家として活躍した土本。
「五〇年問題」ではともに反主流派(国際派)に所属したふたり。中野はその後も非主流派として党内に残るが、1964年除名。土本は「不満分子」として(懲罰的意味合いもあったというが)「山村工作隊」に編入され逮捕、1957年党籍離脱。
文学者である中野、映画監督である土本、それぞれにとって「党」は愛と憎しみの対象であり「政治」(「革命」)は本来第一義的なものであった。しかし彼らふたりは表現者として生きた。「今の生き方は違う」という意識はあったにせよ、だ。
『偲ぶ・中野重治』の冒頭、「これは記録のために作った映画である」と字幕が出る。そして「史実偽造、事実の抹殺に対して、いろいろな事を記録に残してほしい」と訴える中野自身の映像が続く。
「党史」から消えた人々や事実を記録しなければならない。むろん「党史」だけに限るわけではないが、土本は使命感をもって「記録」に向かう。土本典昭・石黒健治共著『ドキュメンタリーの海へー記録映画作家・土本典昭との対話ー』の中で、土本はこの映画の製作動機について次のように語っている。
「あれだけの芸術家として人生を全うした人だったら、僕らの常識では、全国の人民とは言わないまでも、共産党をはじめ革命家の手によって厚く葬られるのが当然だと思うけど、共産党の指導部や幹部は<反党分子>として彼の葬儀には参加しない。まあそうなるかなとは思ったけど、党のそのときの考え方によって、革命家としての履歴を持った人が無視され、記録されないのはおかしい。それなら一矢報いよう、という思いはありました。」
中野の葬儀自体は、大手出版社の葬儀担当者が取り仕切った「ブルジョア化した葬儀」(と土本は言う)に過ぎない。だが、8人の弔辞の見事な切り取り方をはじめ、この映画の印象は(つまり表現は)、土本の作品の中でもひときわ鮮烈さを放っているように見える。
それが何故なのか、そして80年代の土本作品にどうつながっていくのか。いまの私には、まだそこまで展開することはできない。
(※注)
『越境するサル』№1「記憶へ歩き続ける男」参照。
8 とりあえずの「まとめ」として
私の個人通信『越境するサル』で不定期的に発信された「1979年へ」シリーズは、どこへ向かうのかわからないまま中断された状態になっている。
今回ここで発表するにあたり、これまで通信として発信してきたものをひとつにまとめて体裁を整えてみたが、補足を加え、今後の見通しなどについて若干ふれてみたい。
1979年7月。私自身の教員生活は順調に進んでいた。本州最北端の町の定時制高校。全校生徒20数名の生徒たちとともに、文字通り「生活」していた。それはまるでドラマや映画の中の「小さな分校」の物語のようで、私は日々小さな興奮を覚えながらこの新生活にのめり込んでいたのだ…
まず、書かれるはずだった1979年の後半の簡単な記述(「クロニクル 1979年7月~12月」)を試みる。1月から6月に比べ私の記憶は曖昧となり、他の年との区別がだんだんとなくなっていく。
7月17日、中央アメリカ・ニカラグアのソモサ大統領、辞任してアメリカへ亡命。サンディニスタ民族解放戦線による左翼政権誕生。
8月15日、カンボジア人民共和国政府(ヘン・サムリン政権)がポル・ポト政権の犯罪を追及する人民革命法廷を開く。19日、ポル・ポトとイエン・サリに死刑判決(欠席裁判)。
9月7日、衆議院本会議で内閣不信任案が提出されたが、大平首相は解散権を行使し衆議院解散。10月7日、総選挙。自民党過半数を割るが、保守系無所属の入党によりかろうじて過半数を確保。自民党内派閥抗争が激化し「四○日間抗争」始まる。
9月12日、人形峠で日本初の国産濃縮ウラン生産開始。
10月26日、韓国の朴正煕大統領、夕食会の席上でKCIA部長に射殺される。
11月4日、イランの首都テヘランでホメイニ派の学生がアメリカ大使館を占拠。
11月9日、「四○日間抗争」が終了し、第二次大平内閣発足。
12月10日、マザー・テレサにノーベル平和賞。
12月27日、アフガニスタンでクーデター、親ソ派全権掌握。ソ連の軍事介入にアメリカ反発。
ひとつひとつの「事件」に、それぞれ1章を割くことが可能だ。
たとえばニカラグアについて、アメリカの軍事介入の歴史をまとめたあと、イギリス映画界の巨匠ケン・ローチ監督のニカラグア内戦をテーマにした映画『カルラの歌』(1996年)について語る…
たとえばカンボジアのポル・ポト政権について、その全貌と日本における報道のあり方を検証し、さらに私(たち)の受容の仕方を振り返る…
たとえば自民党の「四○日間抗争」について、現在の政治状況の出発点として検証し直す…
たとえば、濃縮ウラン生産と原子力政策の検証。たとえば、韓国の民主化の歴史の確認。たとえば、ノーベル平和賞の持つ政治性への言及。
そして、アフガニスタンへのソ連の軍事介入により引き起こされたその後の事態、つまり日本のモスクワオリンピックボイコット(もちろんアメリカ主導によって)等々…
ここにあげた「事件」はもちろん氷山の一角であり、取り上げるべき事件は無数にある。
さて、「1979年へ ~同時代史叙述の試み~ 」と題して「1979年へ」シリーズをまとめてみたが、このあと続きは書かれるのだろうか?
「1979年へ」シリーズは私の個人通信『越境するサル』の中で不定期的に発表・発信されたものだが、『越境するサル』自体が同じような問題意識で構想された通信であり、つねに「自分史」と「現代史」を重ね合わせて書くことを意図してきた。その中で特に「1979年」という年を意識して、そこを起点として1970年代と1980年代を振り返ろうとしたのが「1979年へ」シリーズなのである。
だから、このシリーズとして扱ってもいい内容のものはほかにもたくさんあった。そうしなかったのは、現在の出来事(たとえば映画化)を起点として記述する方法をとったからである。
そして今後も、現在を起点として過去を振り返るという形のものが多くなるはずだ。「1979年」という年に縛られずに自由に過去と現在を往来できるからだ。
だが、今回「1979年へ」シリーズを通読してみて、この方法の面白さを実感しているのも確かだ。
「同時代史叙述の試み」のひとつとして、提出する。
<後記>
次の発信は、10月の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の後になる。 「『越境するサル』的生活 2013」という形で、映画祭の報告以外の内容も充実させてみたいと考えているのだが、どうなることやら…
(harappaメンバーズ=成田清文)
※『越境するサル』はharappaメンバーズ成田清文さんが発行しており、個人通信として定期的にメールにて配信されております。
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