2016年1月12日火曜日

【越境するサル】№.142「『越境するサル』的生活2015-2016」(2016.1.11発行)

 毎年、読書や映画鑑賞や街歩きや日常についてエッセイ風に記述している「『越境するサル』的生活」。2015年は6月にすでに発信しているが、9月から冬 にかけて、そして2016年初頭に出会ったものについて、この題名でここでまとめて記述したいと思う。本当はひとつひとつの通信として書くべき内容だが、 そこまで余力がなかったのだとしか言いようがない


         「『越境するサル』的生活 2015-2016

9月某日

    妻と盛岡を訪れる。いつもの高速バス「ヨーデル号」で2時間あまり。盛岡駅西口に到着した時、心配された天気も回復し、広がる青空に胸をなでおろす。駅の中の売店で「福田パン」を買い求め、岩手県立美術館を徒歩で目指す
    今回の目的は、「フリオ・ゴンサレス展」。スペインの彫刻家フリオ・ゴンサレスは、溶接技術により鉄のパーツを加工し組み合わせて独自の彫刻を作り上げたアーティストだが、今回はそのゴンサレスの日本ではほぼ最初の本格的な展覧会である。
    金工職人時代の仕事、1910年代最初期の彫刻作品、そして同じスペイン出身のパブロ・ピカソとのコラボレーション。何と自由な空間、ピカソの絵が飛び出して来たようだ。
    20世紀鉄彫刻の父」ゴンサレスの作品群を鑑賞したあと、常設展の舟越保武や松本竣介の展示室をのぞき、美術館全体を堪能する。この建物に流れるゆったりとした時間が好きだ
  
   美術館からバスで中ノ橋界隈に出る。実はこの日、南部鉄瓶を間近で見たいと思っていた。南大通「鈴木盛久工房」と紺屋町「釜定」の2軒をまわり、初めて意 識して鉄瓶や他の鉄器をつぶさに見た。「意識して」というのは、自分が日常生活の中で使うならばと意識して見たということだ。結局この日は、その入手の困 難さを確認しただけで終わった。南部鉄瓶との出会いは、まだプロローグ段階だ
   このあと、桜山神社界隈の「六月の鹿」で珈琲を飲み(この店については「盛岡の珈琲」としていつか話すことになるだろう)、街のギャラリーで舟越桂のス ケッチ展を見つけ、大通クロステラス「賢治の大地館」で岩手物産を物色し、夕方、映画館通りサンライズタウンビル(旧日活ビル)「ヌッフ・デュ・パプ」に ようやくたどり着いた。私にとって、盛岡で一番落ち着けるレストラン(とびぬけて広い空間を持つパブと言ってもいい)となりつつあるこの店で、岩手産ワイ ンと、シャルキュトリー(ハム、ソーセージ、パテ、テリーヌなどの総称)盛り合わせと、白金豚ステーキを味わう

10月某日

   ひとりで青森に行く。最近お気に入りの1103分弘前発特急「つがる3号」で青森到着、駅でサンドウィッチを購入し、そのまま駅前の広場で軽い昼食。さっそく、この日最初の目的地「シアター&カフェ ディクト」に向かう。この7月、通いなれた「シネマディクト」の1階にオープンした、この店の第一回目公開作『首相官邸の前で』(2015)を観るためだ。
   脱原発を求めた、2012年夏の20万人官邸前デモを記録したこの作品の監督は、小熊英二。1962年生まれ、慶應義塾大学教授の歴史社会学者である彼の著作は、私にとって10数年前から特別な存在であった。
   『単一民族神話の起源-<日本人>の自画像の系譜』(1995)・『<日本人の境界>-沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮:植民地支配から復帰運動まで』(1998)・『<民主と愛国>-戦後日本のナショナリズムと公共性』(2002)・『1968』
2009)、このうち『単一民族神話の起源』と『<民主と愛国>』は、のめり込むようにして読んだ。特に、『<民主と愛国>』に対する共感と反感の入り混じった気持は、いまだに整理がついていない。 しかし、「官邸前デモ」という歴史的な出来事を記録しようとする彼の姿勢そのもの、そして行動については、まず支持したいと思う。
   小規模だが静かな熱気にあふれた上映会をあとにして、この作品が「ヤマガタ」でそして全国各地で上映されていく過程を想像した。この想像は、さまざまな悲観的な考え方を払いのけるものだったか

   この日はもうひとつ目的地があった。古川界隈の、いつもの珈琲店で「マンデリン」を飲み、いつもの蕎麦屋で「もりそば」を食べ、書店や観光物産館で時間を つぶしたあと、午後5時、そこにたどり着いた。寺町、浄土真宗蓮心寺。この寺の本堂で行われるコンサート、これがこの日のもうひとつのテーマだった。
   今年で5年目を迎える蓮心寺での「新井英一 魂の叫び」。私にとって蓮心寺でのコンサートは2度目、その前に弘前でのコンサートを経験しているので3度目の「新井英一体験」ということになる。今回は『清河(チョンハー)への道~48番』。かれの代名詞とも言える『清河への道』をすべて聴くチャンスだった。
   1950年福岡生まれ。自らを「コリアンジャパニーズ」と呼ぶ新井は、15歳で家を出て米軍キャンプなどで働きブルースに目覚め、21歳で渡米、帰国後ミュージシャンとしてデビュー。彼の名を世間に認めさせたのが、1995年に発表されたアルバム『清河への道~48番』である。父の故郷・韓国清河への旅の思い出と自らの半生を歌い上げたこの曲は、筑紫哲也のニュース番組に取り上げられるなど話題となり、レコード大賞「アルバム大賞」を受賞した
   午後5時半、コンサート開始。新井とギタリスト高橋望の作り出す音そして声に、満員の本堂は魅了される。オープニングの『イムジン江』とトーク、さらに2 曲、そして『清河への道』。1番から48番まで、息もつかせぬ45分。新井の人生をともに旅した聴衆は最後までヒートアップしたままで48番を聴き終え、 父の墓前での思いを歌ったアンコール曲でようやくゆっくりとクールダウンを始めた。何という邂逅

10月某日

   午後1時過ぎ、京都東福寺バス亭付近の喫茶。民家を利用した隠れ家的喫茶の庭で珈琲「ふくふくブレンド」をゆっくりと飲み干す。京都駅八条東口のホテルから歩くこと45分、この出張で初めて落ち着いた時間を持った
   東福寺は紅葉の名所だが、まだその時期ではなかった。それでもここに足を運んだのは、方丈(本坊)の庭園「八相の庭」と出会いたかったからだ。方丈の東西 南北に配置された近代禅宗庭園の傑作。作庭家・重森三玲(1896-1975)によって1939年完成された「モダン枯山水」とも言うべきこの庭園には、 何本かのテレビドキュメンタリーを通して興味を持ち続けていた。また、日本庭園史の研究家である重森三玲の圧倒的な存在感にも魅せられていた。とにかく、まず、「八相の庭」に行かなければ。
   観光客の流れに従い、まず紅葉の名所である「通天橋」を渡って景色を楽しみ、そのまま奥の「開山堂」に向かう。早くも市松模様の石庭に迎えられ、少しずつ枯山水モードになっていく自分を感じる。
   「通天橋」を出て、いよいよ方丈拝観受付の庫裡に向かう。靴を脱ぎ、受付を済ませ、方丈への廊下を渡り、眼前に豪快に石を組み合わせた南庭の雄大な姿が広 がる。視界を右に移すと、円柱の石で北斗七星を構成した東庭「北斗の庭」の小宇宙。廊下を右に進み大方丈の角を左に曲がると、コケと敷石の市松模様の北庭 「小市松」。さらに進み左に折れると、サツキの刈り込みと砂地の西庭「井田市松」。これでひとまわり。もういちど南庭と東庭の姿を脳裏に刻み、方丈をあと にする。
   国宝「三門」前でしばし物思いにふけり、急ぎ足で塔頭「霊雲院」に向かう。ここでは、重森三玲修復の「遺愛石と九山八海の庭」と「臥雲の庭」鑑賞。まだまだ三玲関連の庭はあるが、もう3時も近い。
   後ろ髪をひかれながら、JR東福寺駅へと急ぐ。まず荷物を預けているホテルでチェックインを済ませ、夕刻からの会合のための準備

11月某日

   ギュン ター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら』(2006、邦訳2008)読了。一ヵ月前、東京出張へ向かう新幹線の車中で読み始め、以後何度か中断しながらも 歩みを続け、ついに読了までこぎつけた。グラスの作品はいつもこういう読み方を、すんなりと読み通すことを許さない読み方を、読者に強いる。訳者(依岡隆 児)も巻末の「解説」で言っている。「ゆっくりと、読もうじゃないか!」
   2006年、ノーベル文学賞を受賞した7年後の夏、グラスは第二次世界大戦末期にナチス武装親衛隊員だった(17歳の志願兵だったグラスは武装親衛隊に編 入された)ことを告白した。この告白をめぐって議論が起こり、それはスキャンダルとして扱われ、グラスは集中砲火を浴びた。ドイツの戦争責任と過去に向き 合うことを主張してきた作家が、自らの責任については口をつぐんできたことを糾弾された。ノーベル賞を返還すべきだ、グダニスク名誉市民の栄誉を剥奪すべ きだ
   やがて刊行された(この告白の内容を含む)自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』も、当初そのようなスキャンダルの書として読まれた。だが、マスコミや反 グラス陣営の糾弾の嵐にもかかわらず、グラス擁護の声は多くの友人から(時には政治的立場が違う人々からも)挙がり、彼に対する評価は揺るがなかった。こ の作品も、「多面的」で失敗・挫折を繰り返してきたグラスそのものが語られているものとして読むべきだろう。
  
   『玉ねぎの皮をむきながら』は、グラスの前半生の自伝である。少年時代、故郷ダンツィヒ(現在のポーランド・グダニスク)で経験した開戦。軍国少年として 軍に志願、武装親衛隊員として前線に赴き、負傷してアメリカの収容所で迎えた敗戦。その後、現在のドイツで石工として働き、美術アカデミーで彫刻を学び、 その中で詩作も続け、結婚し、「47年グループ」への参加から出世作『ブリキの太鼓』(1959)へと向かっていくグラス。いくつかの過去といくつかの現 在が交錯する独特の構成に、とりわけグラスがグラスへとなっていく後半の叙述には、過去に読んだグラス作品のどれよりも引き込まれたことを白状しなければ ならない。邦訳発売当時、「告白」の部分だけに注目し、全体を読もうとしなかったことを悔いるのみである。
   さて、『ブリキの太鼓』までのグラスの歩みを文学的に昇華された形で追体験した後、『ブリキの太鼓』の再読に向かおうとしている自分がいる。グラスの代表作の舞台裏やその造形のモデルである人々のことを知った今、以前とは別の読み方ができるような気がするのだ。いつか「再会」する予感がしていた作品でもあるし
   さらに、もうひとつの自伝的作品『箱型カメラ』(2008、邦訳2009)にも私は向かうだろう。『ブリキの太鼓』以後のグラスの在り方も、私にとって重要なテーマのひとつだ。

なお、ギュンター・グラスは2015413日に亡くなった(享年87)。最も影響を受けた現代作家の死に際し、私は言葉を持たなかった。この文章を、遅ればせながらの追悼文としたい。


   ここから、私の精神生活は少しずつ失速していく。というより、停滞していく。けれど、そういう生活の中でも、心に留めておかなければならない体験・経験はあった。列挙するだけしかできないが、記しておこう。  
  
12月某日

   harappa映画館「季節はずれのバカンス」にスタッフとして参加。フランスの映画監督ギヨーム・ブラックとジャック・ロジエの作品計4本(うち1本は短編)の上映会だが、なんとほぼ満員が続く大盛況。大入り袋が配られた。弘前市民のミニシアター系映画への渇望感が、ひしひしと伝わってきた。
   上映内容詳細はharappaホームページで
   そして報告はホームページのブログで

12月某日

   職場の旅行で、函館の定番のコースを歩き酒や食事を楽しんだ。その中でカトリック元町教会の印象があまりにも強く残っていることが驚きである。何度も訪れ ている場所なのに、まるで特別な時間を過ごしたように感じてしまった。ゴシックスタイルの建物の見事さや、時のローマ法王から寄贈された中央祭壇や数々の 像に心を奪われる内部の荘厳さ。流れていた教会音楽の効果。それらすべてと、自らの状況・心理状態がマッチしてしまったのか<超越者>について、初めて 本気で考えた。

12月某日

   仕事で訪れた飯坂温泉で、まさしく隠れ家と呼ぶべき喫茶(珈琲店)と出会う。店の名は「カフェ ひらなが」、味わったのはフレンチ・モカ。深煎りで、しかも優しい味わいに幸福を感じた。2016年に再開しようと考えているシリーズ「珈琲放浪記」の中で、必ず紹介されることになるはずだ。

12月某日

   東山彰良の第135回直木賞受賞作『流』(2015)読了。東山は台湾生まれで日本育ちの作家。『流』は自らの故郷・台湾を舞台とした「青春ミステリー」。蒋介石死去(1975年)以降の台北が主な舞台だが、ひとつの歴史小説としても読める骨太の作品だ。いつか、言及することになるだろう。

1月某日

   エドワード・ヤン(楊徳昌)監督の『恐怖分子』(1986)・デジタルリマスター版を鑑賞(残念ながらDVDで)する。198090年代台湾ニューシネマの旗手ヤン監督の作品だが今まで見逃していた。舞台は1980年代の台北もちろん、後日言及することになるはずだ。

1月某日

   新聞・雑誌の書評欄で話題の『戦後入門』(ちくま新書 2015 加藤典洋)を、ついに購入した。新書とはいえ、600ページを超える大部。近いうちに読み始める予定だが、過去の加藤の著作と自分との関わりも含めて、真剣に論じなければならないだろう。2016年の宿題が早々と決まってしまった

   さて、この後も、私はさまざまなものと出会い続ける。そして、3月に予定されている「佐藤泰志原作映画」2本の上映会に向けて、少しずつ準備を重ねていくだろう。そうしているうちに、私は退職を迎える。4月、私は、どこで何をしているだろう


<後記>

   過去の『越境するサル』の歴史の中でも類を見ない失速と停滞。「今年出会ったドキュメンタリー」以外発信するあてのない日々。それでも出会いはあり、心を動かされる体験もあった。そのうちのいくつかについて、このような形で報告する。
   なお、今回の報告と関連する内容のバックナンバーをふたつほど付録として掲載する。現在のブログでは読むことができない過去の通信を付録という形で発掘し、参考資料としたい。『越境するサル』もそれだけの歳月を経たと言える。
   次号は「上映会への誘い」、『海炭市叙景』と『そこのみにて光輝く』の紹介。


<バックナンバー 

    『越境するサル』 №16(2004.8.29発行) 

   8月26日、ブルース歌手新井英一のコンサート(「あおもりいのちの電話・チャリティコンサート」)が弘前市駅前市民ホールで行なわれた。弘前では初めての新井のコンサート、待ち望んでいた機会であった。 

           「新井英一、その『声の力』」

   もう若くもない人間がミュージシャンのコンサートに行こうと思いたつとき、多分ある種の記憶との再会を心の何処かで期待しているのだ。その証拠に、新しい 曲がかかると何やら落ち着かなくなり残り時間を数え、待ち望んでいた曲が始まれば時が止まってくれることを願ってしまう。つねに現在形であろうとする ミュージシャンにとっては厄介な客だが、そのように記憶と再会することによって癒される何かを持ってしまった人間にとって、肝心なのはカタルシスを与えて くれる懐かしい曲であり、懐かしい声である。
   ここ数年私が出かけたコンサートというのは本当に数えるほどだが、「井上陽水コンサート」にしろ「カルメン・マキコンサート」にしろ「記憶への旅」のよう な経験に思われた。高校時代に行ったコンサートから29年ぶりの「井上陽水コンサート」は構成自体がそのように出来ており、アンコールは『夢の中へ』から 『傘がない』で終了した。自分が期待していた曲にこそ出会えなかったが、「カルメン・マキコンサート」は『時には母のない子のように』と『戦争は知らな い』をプログラム後半に用意し、つめかけた「その時代の人々」を安堵させた。

   そして今回の「新井英一コンサート」だが、新井に対してたとえば上記のふたりのような「記憶への旅」というほどの長いファン歴を私は持っていない。その存在を知ってから、まだ10年もたっていないのだ。1995年のアルバム『清河(チョンハー)への道~48番』 発表、そしてNHKBS「世界わが心の旅」やテレビ朝日「21世紀への伝言」への出演によって、私(たち)はこの「コリアンジャパニーズ」のブルース歌手 の存在を知った。私も早速『清河への道』を含めて2枚のアルバムを入手し、魂を歌い上げるような野太いブルースの世界に魅了された。だが、CDだけでは本 当に出会ったことにはならない。そのことを再確認させられたコンサートであった。
   午後7時、開演と同時に『君に夢の歌を』・『エイジアン・パラム』の2曲が続けて演奏される。まだ客との関係はぎこちないが、徐々に「新井英一」がホール に充満し聴衆に浸透していく。その声とギター(高橋望)の圧倒的な力により、すでに知っている曲がまるで新しい曲のように、未知の曲が懐かしい曲のように 感じられる。そして『アメージング・グレイス』。その時私は、自分が涙を流していることに気付く。うっすらとだが、たしかに私の目からは涙が流れている。 一体、何が起こったのか?続く『イムジン江』までこの状態は変わらず、最後の曲『清河の道』を迎える頃、私は完全に「自己浄化」を終えていた。

   『清河への道』は、新井が自らのルーツを求めて父の故郷・韓国清河(チョンハー)を訪れた経験と自分の人生を歌い上げた曲で、今回は全48番のうち8番ま でが歌われることになっていた。照明が変わり、曲がスタートする。新井の世界に取り込まれている聴衆には、もう時間の感覚はない。8番を過ぎる。もっと先 まで行くことが宣言される。9番、10番、11番、12番・・・「新井英一」という物語はどこまでも、どこまでもこのまま続いていく・・・

   翌日、同じ会場にいた友人からメールが届いた。「『声の力』を私たちもっと信じていい」・・・その通り、私たちはこの「声の力」に圧倒され魅了され、「懐かしい」とさえ感じた。そして、もっともっとその声を聴きたいと思う。
   次のコンサートを、ひたすら待ち望む日々が始まった。

<後記>(№16の)

   「新井英一コンサート」の興奮だけで、№16を発信する。実は、イギリスの映画監督ケン・ローチについて少しずつ書きつないでいたのだが、中断してこちら を発信することにした。あと、急にカフカが読みたくなったり、中国の文革映画が気になったり、相変わらず落ち着かない。とりあえず次は、ケン・ローチで。


<バックナンバー

     『越境するサル』 №48(2006.11.1発行)

   今年8月、長編小説『ブリキの太鼓』(1959年)の著者で1999年ノーベル文学賞を受賞したドイツの作家ギュンター・グラスの「告白」が、世界中で大 きな話題となった。第二次大戦末期に「ナチス武装親衛隊」に所属していたというのがその内容であるが、グラスの愛読者でありその作品や立場の影響を受けた 私にとって、「告白」と以降の経緯を整理し検証するという作業がぜひとも必要であるように思われた。
   インターネットと雑誌で入手したごくわずかの資料をもとに、現時点での「告白とグラス」について私なりにまとめたものを、以下報告する。「注」で紹介した記事については、末尾のアドレスをそのままクリックして参照してほしい。 
 
      「ギュンター・グラスの告白」

   発端は2006年8月12日、ドイツ日刊紙『フランクフルター・アルゲマイネ』に掲載(電子版は8月11日)されたギュンター・グラスのインタビュー記事 であった(注1・2)。この中でグラスは、9月出版予定の自伝『タマネギの皮を剥きながら』(仮訳)の内容についての質問に答えて、自らが国防軍に志願 (Uボート部隊)して拒否され、その1年後17歳で武装親衛隊(SS)に配属され敗戦を迎えたことを言明した。60年の歳月を経ての告白であった。反体制 の作家として、社会を風刺した数々の作品や政治評論・平和運動で知られるグラスのこの「告白」は、ドイツ国内はもとより国際的にも広く報道され話題を呼ん だ(注3~6)。
   以後、この自伝に注文が殺到したため予定を前倒しして8月16日にドイツ・オーストリア・スイスで出版(結果的に「告白」は発売のための大いなる「宣伝」 となったわけだ)、ポーランド元大統領レフ・ワレサ等による「グダニスク名誉市民を返上させよ」(グラスはダンツィヒつまり現在のグダニスク出身)との批 判(注7)、それらの批判を受けてグダニスク市からグラスに送られていた書簡に対するグラスの回答・説明(注8・9)と、事態は進行していく。ドイツ およびポーランドを中心に賛否両論が巻き起こり、とりわけグラスと敵対していた右派・保守派からは激しい批判が起こったが、ドイツのテレビでの世論調査で は68%がグラスへの信頼を表明(10)、9月12日には「グラス氏への批判、ポーランドでは収束」との報道(11)が入り、またグラスは「国際 懸け橋賞」の受賞を辞退(12)、グダニスク市議会も名誉市民称号剥奪の決議案を取り下げ、外部の眼からは事態は収束したように見える。
   以上、9月上旬までインターネットで得た情報をオンライン百科事典「ウィキペディア」によりながらまとめてみた(「注1~12」の参照先も「ウィキペディア」を利用した)。

   9月後半から、月刊誌や週刊誌(紙)(そのいくつかは私が「定期購読」しているものだが)にもグラス関係の記事が載るようになった。そのうち、『週刊 読書人』9月29日号の一面特集「ギュンター・グラスの『告白』をめぐって」(大石紀一郎)、『中央公論』11月号の「ギュンター・グラスが落ちた『歴史リスク』の罠」(熊谷徹)の2つは、ドイツ国内の反響と背景を知る上で大変興味深い論文であった。
   フリージャーナリストとして1990年からドイツに在住している熊谷徹は、1944年当時の「武装親衛隊」が戦力補充のため熱狂的なナチス党員以外の若者 も召集したことを認めつつも、やはり「親衛隊」の一部であることに変わりはなく、被害者にとってはナチスの犯罪を象徴する組織であることを指摘している。 さらに、1959年の『ブリキの太鼓』発表以来「行動的知識人」としてナチスの過去と正直に向き合うことを求めてきたグラスが、60年間自らの過去に沈黙 してきたことは、リベラル層の強い戸惑いを引き起こし、彼がナチスの犯罪に気づかなかったと語ることへの疑問が生じている、と語る。ドイツ(西ドイツ)に おいては、「自分が加害者だった事実と直面する作業を長年にわたり怠っていると、被害者から批判され、現在の生活、経済活動、外交関係などに思わぬ悪影響 が及ぶ」。熊谷はこれを「歴史リスク」と名づけているが、ギュンター・グラスもこの「リスク」の罠に落ち、「過去との対決の旗手」としての名声に深い傷を 受けた、としている。
   東京大学助教授(ドイツ思想・政治文化専攻)の大石紀一郎は、「スキャンダラスに報道されたわりには、武装親衛隊が行った虐殺などの犯罪行為にグラスが荷 担したわけではなく、その点では大騒ぎするほどのことではない」としながらも、やはり60年以上もこの事実を秘匿し続けたことを問題視する。多くの社会的 発言を繰り返してきたグラスにとって、この隠蔽は「道徳的権威」を傷つけるものであると評されている、というのだ。さらに、今回の騒動の「PRキャンペー ン」としての側面についてふれ、メディア戦略と商業化の波がナチスの過去に関する「記憶の文化」の領域にも押し寄せていることを指摘する。
   どちらの論文も、当時多くの少年たちが「軍国少年」でありナチスの文化の中で育ったこと、つまりグラスが軍に志願したことは普通の少年の行為であることを 認めてはいるが、あまりにも長い間、もっと早く告白する機会がありながら、隠し続けてきたことが問題とされているドイツの状況を伝えている。やはり、遅す ぎたのだ・・・
   そして、『世界』11月号には、今回の騒動の発端となった『フランクフルター・アルゲマイネ』紙のインタビューの日本語訳「60年後の今、なぜ沈黙を破る のか」(三島憲一訳)が掲載された。ようやく、グラスの「告白」とその前後の内容を正確に知ることができるようになったわけである。

   さて、ギュンター・グラスのファンを自任する私であるが、きちんと読み通した著書は8冊だけである。小説が、『ブリキの太鼓』(1959年)・『猫と鼠』 (1961年)・『犬の年』(1963年)・『局部麻酔をかけられて』(1969年)・『鈴蛙の呼び声』(1992年)・『果てしなき荒野』(1995 年)・『蟹の横歩き』(2002年)の7冊、それに評論『ドイツ統一をめぐって』(1990年)。このほかに、購入したが未読のもの(というより途中で断 念したもの)が3冊ある。『ひらめ』(1977年)・『女ねずみ』(1986年)・『私の一世紀』(1999年)がそれで、読み通すだけの気力がなかった のである。グラスは魅力的な作家だが、ある種の作品はとにかく疲れるのだ・・・
   今回の騒動について資料を集めながら、グラスの書誌や年譜を何度も確かめたのだが、ある作品の存在が気になり始めた。その作品の名は『蝸牛(かたつむり) の日記から』(1972年、邦訳1976年)。大戦中の記憶についての記述があるのでは、と思わせる長編小説なのである。早速各図書館の蔵書を検索し、青 森市民図書館から借りてみた。
   『蝸牛の日記から』の構成は複雑である。1969年、グラスはSPD(社会民主党)のヴィリー・ブラント内閣を実現させるために連邦議会選挙に支援者とし て参加、戦後ずっと与党として君臨したCDU(キリスト教民主同盟)の地盤である地域の演説会場をマイクロバスで廻る選挙遊説を精力的に行う。その遊説の メモ(ドキュメント)と、ナチスに追われてパレスチナに移住する故郷ダンツィヒのユダヤ人の運命、さらに戦争中自転車屋の地下室に身を潜め生きのびた「疑 惑」という綽名を持つユダヤ教区の高校教師(架空の人物である彼は「かたつむり」および「なめくじ」の蒐集家だ)の物語が、交錯しつつグラスの妻と4人の 子ども(1969年当時、12歳の双子と8歳と4歳)に対して語られる・・・
   そのような形式のこの小説は、文字通り「蝸牛」のような歩み(これはグラスの目指す「社会民主主義」の歩み方とも重なる)で読者を当惑させながら進行して いくのだが、随所にグラスの肉声のようなつぶやきが記されている。たとえばユダヤ人への迫害に対して、「その通り、お前たちに罪はない。私もとにかく中途 半端に遅れて生れたので、罪はないと見なされている。事態が徐々にそうなって行ったのを、もし私が忘れようとし、お前たちが知ろうとしないならば、その時 だけ、罪と恥という単綴の言葉に私たちは追いつかれてしまうだろう」(高本研一訳、以下も)と語り、あるいは「たしかに私はその場にいなかった。しかしー 子どもたちよー十三歳の私がその中にいたって少しもおかしくなかったのだ」と述懐するグラス(そういう「私小説」なのだ)。小説の最後、グラスはつぶやく。「七二年四月に私たちはプジョオでダンツィヒに行くつもりだ。そしてグダニスクで、私が六歳、十歳、十四歳であったときの場所を捜したいと思う。」
   この小説の「訳者あとがき」に、こんな表現があった。「懐疑と憂鬱という主題を鋭く考えながら、鋭く考える人を好まないグラス、信心ぶったカトリック信者 と厳密な無神論者を好まないグラス、繰返し何度も誤りを犯すグラス、そうした幅広く、奥行の深い、複雑なグラスという作家の魅力・・・」。・・・繰返し何 度も誤りを犯すグラス・・・
   『蝸牛の日記から』のラストにつながる作品として、『タマネギの皮を剥きながら』の日本語訳の出版を待ちたい。 

注1)
   FAZ.net: Günter Grass enthüllt: Ich war Mitglied der Waffen-SS (11 Aug 2006)   http://www.faz.net/s/Rub28FC768942F34C5B8297CC6E16FFC8B4/Doc~E4E61DA913E954EAEA41518E564AD5375~ATpl~Ecommon~Scontent.html

注2)
   FAZ.net: Günter Grass im Interview: Warum ich nach sechzig Jahren mein Schweigen breche (11 Aug 2006)
http://www.faz.net/s/Rub117C535CDF414415BB243B181B8B60AE/Doc~ED1E99E51572441E696FB0443CA308A56~ATpl~Ecommon~Scontent.html

注3)
    『朝日新聞』2006812日付「ノーベル賞作家グラス氏『ナチ武装親衛隊にいた』と告白」
http://book.asahi.com/news/TKY200608120106.html

注4)
    『産経新聞』同813日「『ナチス親衛隊だった』 独ノーベル賞作家が告白」

注5)
    『日本経済新聞』同812日付「ナチス親衛隊所属を告白、ノーベル賞作家のグラス氏」(共同通信社配信)
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20060813AT2M1201J12082006.html

注6)
   BBC News: Guenter Grass served in Waffen SS (11 Aug 2006)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/4785851.stm

注7)
   BBC News: Walesa attacks Grass for SS role (14 Aug 2006)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4790369.stm

注8)
   CNN.co.jp: 「ナチ親衛隊の過去告白のグラス氏、グダニスク市に説明」

注9)
   BBC News: Grass admits confession 'mistake' (23 Aug 2006)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/5277818.stm

10
    「東京新聞」同819日付「『独の良心』 苦悩60年」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20060819/mng_____kakushin000.shtml

11
    『産経新聞』同912日付「元ナチス・グラス氏への批判、ポーランドでは収束」
http://www.sankei.co.jp/news/060912/kok006.htm

12
   共同通信社配信200693日付「グラス氏、国際賞を辞退 親衛隊所属、抗議を懸念」 

<後記>(№48の)

   とにかくグラスの「自伝」を読まなければ何も始まらない。今回は、その前にこちらが準備すべきことをまとめてみた。待つ態勢は、一応できたように思う。
   今月の末から来月にかけて、修学旅行の引率で沖縄・京都を廻る。もちろん仕事として行くのであるが、個人的にも沖縄行きを心待ちにしている自分がいる。「平和の礎(いしじ)」の前に立ち、もう一度<追悼>について考えてみたいのだ・・・

   次回の通信は、その報告を予定している。

(harappaメンバーズ=成田清文)
※「越境するサル」はharappaメンバーズの成田清文さんが発行しており、
個人通信として定期的にメールにて配信されております。


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