2013年10月31日木曜日

【越境するサル】No.120「『越境するサル』的生活 2013~<ブラザー軒>と<ドキュメンタリー映画祭>と~」(2013.10.27発行)


今年の「『越境するサル』的生活」は、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2013」を訪れた「ある1日」の報告である。

2年に1度開催されるこの映画祭についてはその都度『越境するサル』で報告してきた(※注1)が、今回は映画祭そのものについてより私の意識(それは「記憶」を含む)の流れを重視したいと思う。数ヶ月続いた仕事の重圧から少し解放されて自分を取り戻していく、その過程を記述することができればと思う。

「『越境するサル』的生活 2013~<ブラザー軒>と<ドキュメンタリー映画祭>と~」

10月12日、仙台7時40分発山形行き特急バス車中。ここしばらく読みふけっていた「半沢直樹シリーズ」の2冊目のページをめくる手を休め、私は前の晩訪れた仙台のレストラン「ブラザー軒」のことを思い出そうとしていた。   明治35年創業で、太宰治『惜別』(1945年)の会話にも登場するこの老舗は、現在中華料理レストランとして営業されている。その見事な味やレトロでしかもセンスの良さを感じさせる内装や蔦におおわれた外観についても語ってみたい気はするが、その時私が思い出そうとしていたのは、この店の名がそのまま題名となっているある現代詩の作品のことだ。

その詩は、宮城県亘理郡亘理町出身の詩人菅原克己(1911~88)の詩集『日の底』(1958年刊行)に収録されている。

東一番丁、/ブラザー軒。/硝子簾がキラキラ波うち、/あたりいちめん氷を噛む音。/死んだおやじが入って来る。/死んだ妹をつれて/氷水喰べに、/ぼくのわきへ。/色あせたメリンスの着物。/おできいっぱいつけた妹。/ミルクセーキの音に、/びっくりしながら/細い脛だして/椅子にずり上る。/外は濃藍色のたなばたの夜。/肥ったおやじは/小さい妹をながめ、/満足気に氷を噛み、/ひげを拭く。/妹は匙ですくう/白い氷のかけら。/ぼくも噛む/白い氷のかけら。/ふたりには声がない。/ふたりにはぼくが見えない。/おやじはひげを拭く。/妹は氷をこぼす。/簾はキラキラ、/風鈴の音、/あたりいちめん氷を噛む音。/死者ふたり、/つれだって帰る、/ぼくの前を。/小さい妹がさきに立ち、/おやじはゆったりと。/東一番丁、/ブラザー軒。/たなばたの夜。/キラキラ波うつ/硝子簾の向うの闇に。 (「ブラザー軒」・思潮社現代詩文庫49『菅原克己詩集』より)

フォークシンガー高田渡の代表作である「ブラザー軒」は、もちろんこの詩に曲をつけたものである。私は彼のアルバムやドキュメンタリー映画(※注2)でその曲に慣れ親しんできたが、しばらくの間高田渡のオリジナルであると思い込んでいた。菅原克己の詩だということを知ったときから、この詩人の存在が私の中で次第に大きくなっていった…

そして先月、ある作品と出会い、私の中の彼の存在はますます大きくなった。ちょうど仕事に押しつぶされそうになっていた時期である。詩の名は「マクシム」。詩集『遠くと近くで』(1969年刊行)に収録されている。

誰かの詩にあったようだが/誰だか思い出せない。/労働者かしら、/それとも芝居のせりふだったろうか。/だが、自分で自分の肩をたたくような/このことばが好きだ、/<マクシム、どうだ、/青空を見ようじゃねえか>//むかし、ぼくは持っていた、/汚れたレインコートと、夢を。/ぼくの好きな娘は死んだ。/ぼくは馘になった。/馘になって公園のベンチで弁当を食べた。/ぼくは留置場へ入った。/入ったら金網の前で/いやというほど殴られた。/ある日、ぼくは河っぷちで/自分で自分を元気づけた、/<マクシム、どうだ、/青空を見ようじゃねえか>//のろまな時のひと打ちに、/いまでは笑ってなんでも話せる。/だが、/馘も、ブタ箱も、死んだ娘も、/みんなほんとうだった。/汚れたレインコートでくるんだ/夢も、未来も……。//言ってごらん、/もしも、若い君が苦労したら、/何か落目で/自分がかわいそうになったら、/その時にはちょっと胸をはって、/むかしのぼくのように言ってごらん、/<マクシム、どうだ、/青空を見ようじゃねえか> (「マクシム」・思潮社現代詩文庫49『菅原克己詩集』より)

左翼活動と詩作と生活が交錯する菅原自身の人生を思い、少しだけ自分自身を重ね合わせ、私も呟いてみる。<マクシム、どうだ、青空を見ようじゃねえか>

いつのまにか、バスは山形市内に入っている。私は夢想を終了させ、読みかけの本をしまい、何度も何度も練り直したこれからの日程を反芻する…

8時51分、山交ビル前到着。すぐ裏のホテルに荷物を預け、いよいよ私の「山形国際ドキュメンタリー映画祭2013」が始まった。弘前のコンビニエンスストアで購入しておいた10枚つづりチケット引換券をジャケットの胸ポケットに入れ、最初の目的地である山形美術館へ向かう。歩いて20分ほどでたどり着くはずだ。

10時ちょうど、『A2-B-C』(2013年 イアン・トーマス・アッシュ監督)スタート。映画祭のいくつかの企画のうち、東日本大震災をめぐる15作品の上映とシンポジウムで構成された特集「ともにある」の1本である。

「ともにある」で上映される作品群は、私も関わっている弘前の自主上映会(それは震災と原発関連の上映会なのだが)の候補となる。そのこともあって、今回の映画祭のスタートはこの映画にしたかった。

『A2-B-C』は、原発事故後の子どもたちの甲状腺検査をめぐるドキュメンタリーである。題名にある『A2-B-C』の「A2」や「B」・「C」は検査の判定を示す。「A2」は急を要しないが経過観察を行うという判定だが、子どもたちの母親の不安や疑問は解消されない。答えが出ない、戦う相手が見つからない彼女たちの闘い…

12時10分、『標的の村』(2012 三上智恵監督)スタート。アジアの新人監督たちの登竜門「アジア千波万波」部門(19作品)の1本。会場は山形フォーラム。山形美術館から歩いて15分ほどだが、かなり慌ただしい移動だ。

『標的の村』は、沖縄・高江のヘリパッド基地反対闘争を描いた作品である。村を取り囲むその基地には、やがてオスプレイが配備される。ベトナム戦争当時、高江の住民たちがベトナムの村人役で訓練に駆り出されていた記憶と、現在の普天間基地封鎖の闘いが、つながり合うひとつの歴史として観客に示される。

制作は琉球朝日放送。監督は、琉球朝日放送開局からアナウンサー・キャスターを務めてきた三上智恵。テレビ放映された本作は、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル大賞を受賞。今回91分の映画として、山形に乗り込んできた。

ラストにかけて、あちらこちらからすすり上げる音がもれてきた。皆、涙を流しながらこの映像に見入っている。何とストレートな、現在進行形の闘い…

15時、山形市民会館。山形フォーラムにほど近い市民会館小ホールで、昨年91才で逝去したクリス・マルケル監督の特集に参加。ベトナム反戦のオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(1967)で知られる、クリス・マルケルの作品45本を上映する「未来の記憶のためにークリス・マルケルの旅と闘い」。

この回は短編3本を、同時通訳機を耳に装着しての鑑賞。

長期にわたる工場のストライキの様子を記録した『また、近いうちに』(1967) 。1967年10月21日、ベトナム戦争に反対する若者たちがペンタゴンに向けて行進する姿を記録した『ペンタゴン第六の面』(1968) 。
チリの軍事クーデターを連想させる『大使館』(1973) 。

2本目『ペンタゴン第六の面』の映像の緊張感と迫力は、予想以上のものだった。その弾圧の暴力性を記録し続ける闘い…

さて、ここまで長編2本と短編3本を鑑賞してきて、すべてが「闘いの記録」であることに改めて気付かされる。その「闘いの記録」とは、人々の日常生活まで丹念に追いかけ、被写体と信頼関係を築き、寄り添うように撮影を続ける、そのような「記録」だ。まるで、三里塚における小川紳介監督のように。あるいは、水俣における土本典昭監督のように。

思えば、このふたりの監督の存在が、山形国際ドキュメンタリー映画祭の原点である(ちなみに「アジア千波万波」部門最高賞の名は「小川紳介賞」)。そして、2年に1度山形を訪れ、弘前でのドキュメンタリー自主上映を模索する、私にとってもこのふたりの作品との出会いは原点であった…

1975年、土本典昭監督『不知火海』(1975)の自主上映に関わったのが、ドキュメンタリーとの最初の出会い。以後、大学祭での『パルチザン前史』(1969)自主上映や、組合分会での『海盗り』(1984)上映や、『水俣 患者さんとその世界』(1971)の学習会や、『偲ぶ・野重治ー葬儀・告別式の記録ー』(1979)についてのエッセー配信(『越境するサル』)(※注3)も含めて、土本典昭監督は常に大きな存在であり続けた。

1976年、小川紳介監督『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972)の自主上映に関わる。翌1977年、岩山大鉄塔が強制的に撤去され、それに抗議する行動が三里塚で行われる。その日(1977.5.8)、緊急に行われた集会・デモを機動隊は催涙弾等で攻撃、至近距離からガス弾を水平に打ち込まれた坂志岡団結小屋の東山薫さん死亡。彼の死は、ひとつの歌となり(「カオルの詩」、作詩は彼の両親、作曲高橋悠治)、私は加藤登紀子のアルバム「愛する人へ」でそれを聴いた…

すでに曖昧となった記憶を必死にたどりながら、私の意識はどこかに落ち着こうとする。

その後、小川紳介監督と小川プロは山形県上山市牧野に移住し、農業と大地を見つめる『牧野物語 養蚕編』(1977)や『ニッポン国古屋敷村』(1982)や『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1986)を作り上げていった。そこから「山形国際ドキュメンタリー映画祭」のスタートまで、私の中ではまっすぐにつながる。だから私は、この映画祭に、山形に、来たかったのだ…

19時、山形フォーラムでこの日最後の映画を観る。「アラブの春」関連映画7本を集めた企画「それぞれの『アラブの春』」の1本『気乗りのしない革命家』(2012 ショーン・マカリスター監督)。マカリスター監督は4年前(前々回の山形)、『ナオキ』(2009)で特別賞と市民賞を受賞した。

山形市内のパート労働者の生活を監督が伴走するように密着して記録した『ナオキ』は、いつか弘前で自主上映したいと考えている作品であり、そのマカリスター監督の新作ならば見逃すわけにはいかない。それに題名も気になった。

『気乗りのしない革命家』の主人公は、観光業者(案内人)のカイス。アラブの春を撮影しようとイエメンに滞在するマカリスター監督のガイドである彼は、反政府デモのためビジネスに打撃を受けている。それもあって彼は反政府デモに批判的だったが、革命への弾圧が激しくなるにつれ次第に変わっていく。『ナオキ』の時と同じように、マカリスター監督は事態に巻き込まれ、監督自身の身辺も少しずつ危険になっていく…途中からもう決意していた。この作品と『ナオキ』をセットで弘前で上映しよう…

夜、屋台村で弘前勢合流。牛串焼きと牛モツ鍋と芋煮を食べながら、その日の収穫について話す。自分が観ることができなかった映画の話に耳をすましながら、焼酎のお湯割りをすする。身も心も「旅モード」になりつつある自分に、つまり非日常の世界で「軽く」なりつつある自分がそこにいる。

少し酔った頭で、明日以降の計画について考える。

明日の日曜日は、グランプリの対象となる「インターナショナル・コンペティション」部門(15作品)に集中しようと決めていた。

まず、山形市中央公民館で『祖国か死か』(2011 ヴィタリー・マンスキー監督)。キューバのハバナが舞台というだけで、期待してしまう。たとえばフェルナンド・ペレス監督のドキュメンタリー『永遠のハバナ』(2003)や、オムニバス映画『セブン・デイズ・イン・ハバナ』(2012)。そこで描かれた、あるいは切り取られた、ハバナの街の記憶を私は思い出そうとする。

次は山形市民会館大ホールで『サンティアゴの扉』(2012 イグナシオ・アグエロ監督)。チリの現代史とアグエロ監督の家族史が交錯する、という。少し長いが、ついて行けそうだ。

続いて、同じ市民会館大ホールの『庭園に入れば』(2012 アヴィ・モグラビ監督)。パレスティナとイスラエルの現代史がテーマだ。

以上の3人の監督は、この映画祭では実績のある「巨匠」たちである。じっくりと腰を据えて鑑賞しなければ。

最後に『チョール  国境の沈む島』(2012 ソーラヴ・サーランギ監督)。ダム建設によりガンジス川に生じた中州の島チョール。そこはインドとバングラデシュの国境の島…かつてNHKでテレビ版が放送された作品だ。

そして月曜日は、フェースブックで知り合ったある家族の虚構をめぐる『キャットフィッシュ』(2010 アリエル・シュルマン監督、ヘンリー・ジュースト監督)。「6つの眼差しと<倫理マシーン>」という企画の中の1本。これを観たらすぐ、特急バスで仙台に向かう。

屋台村からホテルへ向かう足取りは、疲れがたまっているにもかかわらず、軽かった。いい1日だった、と思う。今日は雨を気にしながら市内を歩いたが、明日は青空が見えるかもしれない。やっとまた、空を見上げることができるような気持になっていた。明日、青空が見えたら、菅原克己を気取って、もう1回呟いてみよう。<マクシム、どうだ、青空を見ようじゃねえか>

こうして、1日が終わった。

(※注1)
「山形国際ドキュメンタリー映画祭」については、過去3回レポートしている。
No.33「山形国際ドキュメンタリー映画祭を体験する」(2005年)
No.61「再び山形、ドキュメンタリー映画の都へ」(2007年)
No.98「旅のスケッチ 山形・映画祭の日々」(2011年)

なお、No.98は次をクリックせよ。
http://harappa-h.org/modules/xeblog/index.php?action_xeblog_details=1&blog_id=468

また、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2013」については、次をクリックせよ。
http://www.yidff.jp/home.html
 
(※注2)
かつて高田渡について書いた『越境するサル』バックナンバーを、<付録>として載せる。

<付録>
『越境するサル』No.75(2009.1.26発行)

2005年4月、北海道ツァー中に倒れたフォークシンガー高田渡が死んだ日、ちょうど彼の歌を友人と聴いていた。酒を飲みながら。死を知った後、彼のドキュメンタリー映画の存在が気になった。いつか観たいものだとずっと思っていた。

2008年10月、その映画『タカダワタル的』(2003年、公開は2004年)のDVDをようやく手に入れた。ここから私は、断続的に高田渡の世界に浸るようになった。
 
「『タカダワタル的』世界に浸る」

…1970年8月、中津川フォークジャンボリーのステージで「ごあいさつ」(詩:谷川俊太郎)を読み上げる若き日の高田。この映像から映画は始まる。

33年後、2003年5月5日、「下北沢ザ・スズナリ」。ここでのライブが映画の主要な舞台となる。やがて高田が登場し、「仕事さがし」を歌い始める。

続いて京都「拾得」でのライブ風景、歌は「ねこのねごと」。さらに喫茶「六曜社」の映像…

1968(昭和43)年、「自衛隊に入ろう」で注目を浴びた高田渡は、翌1969年、第1回全国フォークジャンボリーに出演する。この年レコードデビュー、20歳だった。

以後、2005(平成17)年4月16日、56歳で亡くなるまで30数年間、全国各地を旅して歌い続けた。

…再び「ザ・スズナリ」。マリー・ローランサンの詩(堀口大學訳)に曲をつけた「鎮静剤」を歌う高田。

吉祥寺の街を歩く高田。伝説の焼鳥屋「いせや」…

監督はタナダユキ(1975年生まれ)。脚本家・女優としての顔も持つ、若手の注目株だ。監督作品としては『月とチェリー』(2004年)、『百万円と苦虫女』(2008年)、『俺たちに明日はないッス』(2008年)等。『さくらん』(2007年)の脚本も彼女が担当した。

2003年、30数年来のファンを持つ高田の映画の監督に、あえて起用された。

…青山でのライブ(歌は「酒心」)から、吉祥寺音楽祭(歌は「値上げ」)の映像へ。父のステージでペダル・スチール・ギターを担当する息子・高田漣が登場し、父・高田渡について語る…

高田が自らの人生について語った『バーボン・ストリート・ブルース』(2001年、山と渓谷社・2008年、ちくま文庫)には、詩人で共産党員だった彼の父の生い立ち、父との貧乏生活、父の影響や現代詩との出会いなどが綴られている。

息子・高田漣に刻み込まれた「父・高田渡」を垣間見る時、私たちは親子三代の系譜のようなものを意識してしまう。

…「ザ・スズナリ」リハーサル風景から本番の「魚つりブルース」へ。高田宅での飲み会の映像をへて、2003年5月4日の春一番コンサート。

ここから私たちは、彼の歌とじっくり付き合うことになる。「69」から高田の代名詞のような野宿の歌「生活の柄」、タカダワタル的世界に私たちは引き込まれていく…

「69」は金子光晴の詩を、「生活の柄」は山之口貘の詩をもとにして曲を付けた歌である。

高田は多くの現代詩に曲を付けている。吉野弘、石原吉郎、金子光晴。永山則夫の詩もある(「みみず」)。とりわけ傾倒したのが山之口貘で、「生活の柄」をはじめ「結婚」・「鮪と鰯」・「告別式」など多くの山之口作品を歌にしている(多少改作して)。作られたのは1970年前後が多いが、1999年、ミュージシャンたちが貘の詩に曲を付けた作品を集めたアルバム『貘』を監修している。

この沖縄生まれの詩人の存在が、高田の中でいかに大きかったかがわかる(※注)。

…「ザ・スズナリ」。名曲「ブラザー軒」、私たちは父と妹の亡霊が仙台の食堂で氷水(かき氷)を食べる話(歌)に聴き入る。まるで高田自身の物語を聴くように。そして「私の青空」。ステージの向こうに青空が見えるかのようだ。

もう私たちは彼の世界に浸りきっている。いつまでも、このまま、歌を聴き続けていたいと思う。

アンコール曲は「ごあいさつ」。映画のエンディングには、再び「私の青空」。タカダワタル的世界は続く…

昨2008年、私にとって「高田渡再発見の年」とも言うべき動きがいくつかあった(前述の『バーボン・ストリート・ブルース』文庫化の他に)。

まず、彼の30数年に及ぶライブの記録を編集したCD『高田渡、旅の記録・上巻』が発売された。私は最近入手したのだが、これらの記録が残されてあることは感動的ですらあった。私たちは何度も何度も彼と出会えるのだ。

次に『週刊金曜日』2008年9月5日(717号)の特集「高田渡を語る」。森達也、山口泉(山之口泉、山之口貘の長女)、井上陽水、小室等、佐高信、なぎら健壱の文章や語りが収録されているが、私がこの年に入れ込むきっかけとなった特集である。

そして、『タカダワタル的』の続篇として制作されたドキュメンタリー映画『タカダワタル的ゼロ』(白石晃士監督)の全国公開。2001年大晦日ライブ(下北沢ザ・スズナリ )の映像を中心に編集されたこの映画は、前作『タカダワタル的』を凌ぐ傑作であると評価されている。いま、無性に、この映画を観たいと思っている。

実は、『タカダワタル的ゼロ』と出会う(それが自分の手による自主上映であればと夢想することもあるのだが)ための準備、というより決意表明のようなつもりでこの通信を書いている。

いつか、一緒に映画を観る仲間を募る。

(※注…「『タカダワタル的』世界に浸る」の注)
高田が自らの人生を重ね合わせた詩人山之口貘(1903~1963)の作品は、詩78篇・自伝的小説2篇・詩論随筆12篇が収録された『山之口貘詩文集』(1999年、講談社文芸文庫)で読むことができる。

(※注3)
No.89「土本、中野重治の葬儀を撮る」 (2010年)は次をクリックせよ。
http://harappa-h.org/modules/xeblog/?action_xeblog_details=1&blog_id=315

 <後記>
菅原克己の詩と山形国際ドキュメンタリー映画祭。この秋、私にとって大切だったものだ。このふたつについて書くことが重要だった。
次号を11月に出せればいいのだが…

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