【日本映画】
○『戦争と一人の女』
○『かぞくのくに』
○『遺言 原発さえなければ』
○『ペコロスの母に会いに行く』
○『甘い鞭』
【ピンク映画】
○『となりの人妻 熟れた匂い』(後藤大輔)
○『いんらん千一夜 恍惚のよがり』(竹洞哲也)
○『女真剣師 色仕掛け乱れ打』(田中康文)
○『美熟女の昼下がり もっと、みだらに』(荒木太郎)
○『ホテトル嬢 悦楽とろけ乳』(池島ゆたか)
【外国映画】
○『テッド』
○『ジャンゴ 繋がれざる者』
○『ウォーム・ボディーズ』
○『42 世界を変えた男』
○『ゼロ・グラビティ』
※観賞順
2013年は宮崎駿が引退発表した年として記憶されるのだろうか。クリント・イーストウッドの新作も高倉健の新作もない寂しい年だった(高倉健は文化勲章を受章したが)。
13年も「見た映画の質は、見た映画の本数に支えられる」の信条のもと、スクリーンで260本、テレビやDVDで147本の映画を見た。3年連続で「映画一日一本」が現実となったが、「新作よりも旧作を見たときのほうの満足度が高いのは、評価が定まった映画や、かつて見たときに感動したような旧作を選んで見ている結果だろうか」と書いた昨年の思いは変わらない。
スクリーンで見た新作については、評価を5点満点の星取りでメモしているが、いざ三つのカテゴリーに分けて5本ずつを選ぼうとして題名を眺めても、映画の内容、印象、記憶が即座に甦らない。その理由や原因だが、ぼくの体力の衰えも勿論あるが、上映される映画の側にもあるのではないかと考えている。
アニメ(ジブリと「クレヨンしんちゃん」は別だ)、3D映画、吹き替え版の映画をぼくは基本的に見ないが、津軽地方では外国映画は吹き替え版のみの上映だったり、また字幕版と両方上映する場合でも、吹き替え版の方が上映時間で優遇されているようだ。
吹き替え版が増えてきたのはこの十年くらいのことと記憶するのだが、全国的に字幕を読むのが面倒だという観客が多くなっているらしい。彼らにとっては、テレビやDVDの吹き替え版の延長に映画館があるのだろう。映画は映画館で見るものというぼくのスタンスからは、主客が転倒しているように思えるのだが、それは古い考えなのだろうか。
また、俳優の声も映画の魅力のひとつだと考えるので、吹き替え版はみすみす映画の楽しみを放棄することだと思わざるを得ないが、ぼくとは反対に吹き替えの声優を楽しむ人もいるのだろう。でもぼくは、日本語をしゃべるジョージ・クルーニーなんか見たくない。
ここでは選ばなかったが、『人類資金』で20年間の映画制作に終止符を打ったK●HOの椎井友紀子プロデューサーと、1980年代頃までは、よく分からない映画を見たときには、友人と議論したり、名画座まで追いかけて見たり、映画雑誌や本を読んだりして、自分なりに理解しようとしたものだったが、人間関係などが最初から分かっているコミックなどの原作ものの映画が氾濫している現状はその裏返しであり、難解な映画を作ること自体が敬遠される傾向にあるという話をした。別のところでは、外国映画がまったく不振だとも聞いた。これらのことは根元でつながっている。言葉は悪いが、映画観客の精神的な低年齢化がもたらしたものだと思うのである。
入れ替え制という上映形態も、娯楽の先にある映画の楽しみを奪っている。少女に向かってナイフを振り上げようとした女医を押しとどめたのは誰だったのだろうか(『甘い鞭』)。入れ替え制でなければ、そのままもう一回見て、いろいろ確認したり、考えることもできたはずなのだ。
光量の少ない暗い画面でDVD上映を続けている「弘前テアトル劇場」(弘前市桶屋町)は、映画以外のことが目的の入場者も多いが、新東宝が11番組、エクセスフィルムが9番組、オーピー映画が6番組の合計26番組(78本)を上映した。新作27本の内訳は、新東宝が竹書房とタイアップ制作した3本、エクセスは09年公開の6本、オーピー映画は10年以降のピンク映画の新作の大半を担う状況を反映して18本(11年・12年公開作品)だった。いずれもオーピー作品から選んだ。
6年前、「映画芸術」誌に「ヴァニシング・ピンク」と題して、先細りのピンク映画の状況について連載したことがあるが、今ぼくは「ヴァニシング・ムービー」という漠然とした危機感を抱いている。映画そのものが無くなることはないだろうが、その質に関する危機感である。1年後には、この思いが杞憂だったとなることを祈りたい。
(harappa映画館支配人=品川信道)[北の街掲載]
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