2013年12月28日土曜日

【映画時評】番外篇「蒙を啓く時代劇映画論〜小松宰著『剣光一閃 戦後時代劇映画の輝き』書評」


12月は「忠臣蔵」の季節である。物語の発端となった松の廊下の刃傷沙汰がそれだけで季節の話題になることはないが、四十七士の討ち入りの季節には、毎年のようにテレビで映画などが放送される。日本人はなぜ「忠臣蔵」、とりわけ討ち入りに共感するのだろうか。

その「なぜ」を解き明かしたのが、2010年6月から11年8月まで60回にわたって本紙に連載された、「剣光一閃――戦後時代劇映画の精神史」に大幅な加筆・補正と再構成を施した、小松宰著「剣光一閃――戦後時代劇映画の輝き」(森話社)である。

無類の時代劇映画ファンを自認する小松さんは、「自分はなぜ時代劇が好きなのか」「時代劇の中には一体、なにがあるのか」と自問する。

小松さんは、幕末という激動の時代を舞台にした時代劇を現代史の観点から論じる。東映の新選組映画と、太平洋戦争末期を舞台にした特攻隊映画が同根だとする。宮本武蔵と佐々木小次郎の宿敵対決を活写する。柳生十兵衛が片目を失った事情を探る。チャンバラのない文芸時代劇を原作と比較する。『影武者』と『笛吹川』を並べて、黒澤明と木下惠介の史観の違いを明らかにする。

そして小松さんは、鎖国から開国までの泰平の二百余年間を舞台にした、仇討ち物語(忠臣蔵も含まれる)、お家騒動、捕り物帳という、いわゆる定番時代劇に着目する。小松さんは定番時代劇が、安定していた秩序の破壊と回復の物語であるとし、「日本人の心の中には、一切の外圧から解放されて、さながら母親の胎内のような安息に浸っていた時代に帰りたいという無意識的な願望があるのではないか」と分析する。

また、『宮本武蔵』や『新吾十番勝負』といった剣士修養物語映画には、「正しく強く」「一心不乱の精進」という日本的価値観と日本人の精神主義を見出す。 

時代劇映画が最も輝いていたのは1950~60年代である。当時の時代劇映画(その中心は「時代劇の東映」作品だ)を検証することによって、小松さんは「時代劇とは、時代劇による日本人論であり、判官贔屓とか、義侠心とか、忍ぶ恋とか、放浪の魂といった日本人の精神傾向の全的な反映だった」という結論に達するのである。

時代劇ではさまざまな死が描かれる。主人公の死、敵役の死、ならず者の死、妖婦の死、薄幸の乙女の死、等々。中でも、滑稽だったり、崇高だったり、壮烈だったりする主人公の死こそ、時代劇の不変のテーマだと、小松さんは考える。そして、「時代劇とは、〈死の美学〉によって成り立つ物語である」と断じ、『薄桜記』での丹下典膳(市川雷蔵)の悲壮極まる死をその極北とする。本書のカヴァー写真に、『眠狂四郎 炎情剣』(本文では『眠狂四郎』シリーズについて、数行触れられているに過ぎない)の雷蔵が使われた理由もそこにあるだろう。

本書は時代劇映画の魅力や面白さを伝えるだけでなく、日本人論として、ぼくたちの蒙を啓く示唆に溢れている。映画ファン以外の方にも広く読まれるべき一冊である。

(harappa映画館支配人=品川信道)[2013年12月4日 陸奥新報掲載]

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